FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

しつこいようであっさり声かけ

ニュース記事をみていたら、よくある宗教勧誘に人間不信になったという。
それは宗教なんてろくでもないのだから、当たり前である。
むしろ人間不信にならないほうがおかしい。
そのまま裏を返せば、人間不信だから宗教なんて信じられるわけもない。
そう、われわれはそもそも人間を信じていないし、信じてはならないのだ。
聖人はピンポイントで対象者を幸福にしたが、宗教は一人一人を不幸にする。
釈迦も当時のバラモン教の問題を指摘し、日蓮は仏教各派と神道の問題を言い当てた。
いわゆる伝統宗教ですら、みなさんが不幸になり、富裕層の強運な人たちだけが幸福だというし、ウケるのは日蓮がみなさんを幸福にすると言いながら信仰できるのは千人に1人程度のようなことも言っていて、もはやはたして人間なんて生き物にいったい価値があるのかどうか、各人各様に疑っているのだ。
伝記を読んだりいくつかの宗教の人たちと話したり接したりしていて、人の幸不幸をわけているものが6割から九分九厘まで生まれ持った境地や性格によるものだと思う。
宗教による違いからくる幸不幸は一厘から多くても4割程度しかない。
宗教家は商売を兼ねているから、宗教がすべてであり、なにもかも解決してハッピーになると宣伝するもので、実際は各人各様の課題に対する知恵は宗教家は持ち合わせない。
本尊の違いからくる幸不幸は本当はあるのだが、その違いを説明しても各人各様の人生だからまずわからない。
似た話を錯誤して理解することも多々。
アニマルウエルフェアに文化的なものでもそえて幸福が一定のものだという人間としては、宗教が気休めの害毒になることくらいすぐにわかる。
悟りを極めようとしたり、幸福を極めようとしたり、危険な登山をしたり、命に関わるものは真剣でなければ責任問題になる。
真剣に幸福になりたい人たちは一定数いるが、わざわざ危険で財布が損をする宗教までやるだろうか?
日蓮正宗をすすめながら、テキトーな人生をゆるく平和に楽しみたいというみなさんの感覚と自由もまた理解して死ぬまでのわずかな時間を大切にと願う。
死後なにもなくなると信じている人たちの人生と魂の永続を説く教えでは、水と油。
受け止め方によっては余計なお世話だし、学べば新鮮で楽しいもの。
宇宙的エクスタシーを手軽に健康的に楽しめるかどうか?
不健康で邪悪な快楽にすがるか?
アニマルウエルフェアだけに満足するか?
各人各様の好みや嗜好を尊重したい。

何度も書いていることは、日蓮正宗の本尊(唱題)は勧めても宗教活動はまったく勧めない。
いわゆる宗教をすすめずに、心がもっとも幸福になる絶対的ツールをすすめ、心のバランスをととのえる最高の手段をすすめるのみである。
そこのところが明確にわからない人たちからすれば、いわゆる勧誘かなと思われることが多発するのである。
日蓮は勧誘させるのだと、教えにあるではないかと言う人がいたら、日蓮正宗を理解していないし、日蓮の言葉を解釈できていない。
われわれが題目なしに理解できる範疇ではない仏の悟りをハッブル宇宙望遠鏡でわかったつもりになっているから、たんなる宗教の勧誘だと思うのであり、それはそれで無理もない話である。
確かなことは、多くの生き物が真の悟りを得なかったからといって、わたしも日蓮も特になにも困らないということ。
大富豪と宇宙望遠鏡よりすばらしい世界を信じろと言ってハイ信じますというのは不可能だ。
お気の毒な地球上の生き物にも、それなりの幸福があり、望遠鏡があるから、それでよいではないか。
賢くおいしいものでも食べてお幸せに。

宗教という汚ない袋の中に日蓮正宗だけが金塊を勧めている。
深い音楽を志向しているバイオリニストのケースはしばしば傷だらけだ。
外から見ても、中身が金塊かガラクタか判断できないもの。
汚ない袋を全部断ると、ゴミ袋から一億円を見逃すけれど、まさかゴミ漁りはしないし。
汚ない袋の例えも、日蓮の言葉からではある。
まさか日蓮正宗だけが楽しいなんてあるわけがないと外見で判断するのが、日蓮正宗にとってみれば魔除けにもなっている。
ちょうどボロいバイオリンケースだと盗まれにくいように。
あんなケースのバイオリンは安物に違いないとみなさん外見で判断するからこそ盗難予防になる。