FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

意識のレベル あるバイオリンの先生がいう「目が覚めるような音」

f:id:FujiYama:20210714172027j:plain意識が朦朧として判断力が低下してくると休まなきゃなあと思う。単純な疲労の場合は休めばそれで解決。

でもどうやらそれだけではなさそうだなと気が付く。

たとえば試験勉強の出来栄えとかバイオリンやピアノの演奏とかを自分や他人毎に比較してみるとなにが違うのかと興味関心を持つ。

同一人物が同じようなレベルの試験問題に同じような勉強内容でまったく違う得点になるのはなぜなのかと。

成人して向き合う課題が増えると、処理しきれないとか、今はまだ無理だからとかいうことも増える。アップアップになりがち。

楽しいことには一生懸命になって集中力が高まり、苦手意識を持つともはや時間の経過をただ待つだけとなる。

本人の興味関心があるところに意識は向かう。

ないものに集中しろと言われるとこれは厄介なことである。

親や指導者がいくら怒鳴りつけても意識レベルは上がらない。

どちらかと言えば、うまくのせて集中しやすいように介添えをする程度がよい。

特にバイオリンの音色を聴いていると意識レベルがまったく違うのがよくわかる。

ふわふわした音しか出せない、リズムがはっきり出せない、堂々とした表現ができない人たちは、みんなボーっとしている。9割以上がそんな感じである。

プロの中にも違いがあって、ソロでその違いが鮮明になる。

ただ音を出すのが精一杯の子供からクリアでしっかりした音楽表現をしようとする子供までいる。その音楽表現の内容にさらに深さの違いが歴然としている。

その違いを香りや調味に喩えると、安い香料や冷凍食品のような味付けしか知らない人と、本物の香木や完全な天然素材の天然調味料だけで調理したものを日々味わった人との違いに見える。それなら良いものに触れさせればみんなが意識レベルの高い大人に育っていくのかと言えば、実はまったくそんなことはない。子育てだから愛情と投資は惜しみたくないのだが、ほとんど無駄なケースが多い。

やはり人の意識レベルがより重要だということが浮き立ってくる。

バイオリンの場合は、楽器の響きが意識レベルの違いを孕んでいる。やはりこれもよい楽器でもボーっとした人がいくら弾いても聴いてもあまり意味がないということだ。

しかし楽器の側には深い楽器と浅い楽器という違いがある。深い人が浅い楽器で表現しようとすると窮屈な感じになって伸び悩むし、浅い人が深い楽器で弾くとただ音色だけがよいという音出しになる。

学校の試験も似ていて、おもしろい問題とかよくできた問題というのがあっても、解く気がない子供にはまったく無意味なのだ。

要は意識レベルをいかにして上げるかという問題があって、これを環境や物質によって向上させようとして、みなさんが失敗を繰り返しているのだ。

うまくいけば先生や指導者や親戚などとの縁でスーッと集中して意識が高まる運びとなるが、うまくいかないことのほうが多い。うまくいけば誰でも9割以上の得点が常にとれるはずだから。

自分や身近な人がなぜ意識がはっきりしないのか、なぜ理解が浅いのか、もっとできるのではないかと思うのが、人情である。

人は人の生老病死によってもっとも意識を明晰にする生き物である。どんな宗派に属する人であれ、身近な人が亡くなればなにか意識が改まるような気がする。病気になれば習慣を改めようとか。

しかしその辛さも深い悲しみもやがて薄れていき、意識はまたふわふわした中途半端なものに戻る。決意ばかりしてなにもできない人が多い。

一時期世界をヴィルトゥオーゾたちが席巻した。彼らはただバイオリニストになろうと決意すれば意識レベルを最高のものにすることができたが、それはなぜだったのか。

レオポルドアウアーのようなよい指導者にめぐりあうことと、戦争体験が大きかったのではないかと私は考える。

もちろん戦争体験はあまり喜ばしいことではない。

しかし人間が生死をもっとも身近に感じてボーっとしていることができなかったのも事実である。負の遺産として死が身近すぎて精神や神経を病んだ人もいる。

平和な今も日本の家庭内戦争は頻発して、教育虐待や暴力におびえて暮らす女子供がたくさんいるが、まさか意識レベルが上がるとは言えまい。

人間はものごとをありのままに見ることが基本だと知っている。もしできなかったら危険が多い昔なら即死するから、その遺伝子や文化習慣の中に、ものごとをありのままに見よ、という無言の教えを常にしているものなのだ。

現代の教育や政治などを見ているとミサイルが飛来することを想定しなければ、だれもものごとをありのままに見ようとはしないで、ただ自己の欲求充足に耽るだけである。教育内容も得点稼ぎが主であり、世の中や他人のことは知らないという偏頗な常識が蔓延して人間性は衰減し政治は腐敗している。

人が言ってもそれはその人の心には響かないことが多い。

気が付くのは本人であって、周りの誰かではない。

専門家ならヒントを出す事や誘導に長けているから、ある程度は意識を深化させることができる。しかしどうしても本人にしかできないこともある。

平和行動として、私は日蓮正宗の本尊に唱題したり人にそれをすすめたりするが、どんな人でも意識の最深部にいきなり光をあてて目覚めさせることができる。

正月の元旦に書初めをして決意表明する感じを毎日やることができるので、とてもお勧めである。若い時はあまり気にしない人が多いが、一日一日を最大限有効に過ごすことができるお金のかからないシンプルな方法である。

笑い話かも知れないが、私がもし日蓮正宗の家庭に生まれていたら、今頃奇跡のバイオリニストとして世界ツアーに明け暮れていたことだろうと思っている。

プロ野球選手だった落合博満さん(日蓮正宗信徒)がわかりやすい例だが、あの奇跡のバットコントロールヤッシャ・ハイフェッツの弓使いに通じている。ストライクゾーンが尋常ではなく広く、打球の弾道計算まで完璧にできるのは、落合選手の意識レベルが最高峰のレベルであったことを示している。

平和のうちに、人々の意識レベルを上げて深めて、よりよい人生を送るように仕向けるスターたちは貴重な存在であるが、もうそれほど優れた人はあまり出ないだろう。

しかしスターを求めて凡人レベルに入れ込む現代の商業崇拝の流れは悲惨である。ただお金だけあればよいものと錯覚していることは間違いない。年俸と運動神経だけよくても不幸な人がわんさかいる。

たくさんの体験談からわかることだが、ストラディバリウスの意識レベルに育てられる人が多い。それはそのまま一流の演奏者の意識レベルがもともとは浅いものだったということを示している。聴き手も同じである。

戦争や暴力なしにいかに広くみなさんの意識レベルが深まるかということだけを考えていくと、一流のクラシック演奏を生で聴くことと、日蓮正宗の信心をすることの二つが考えられるが、もっとも確実で継続性があるのは日蓮正宗である。

人間の尊厳、自主性、自由、根源を知ることができる意識レベルを最優先にするとみなさんが幸福になり平和になる。

ちなみに表題の「目が覚めるような音」は約12年前の神尾真由子さんの音についてであった。私も数年前に協奏曲を聴く機会があったが、なるほど優れた表現だった。音楽は聴く側と弾く側に感覚のズレがあるが、共通しているのはよい感覚である。

みなさんが誤解しやすいのは、日蓮正宗の題目を聴いてもとりたててあまりよくないと思う感覚と自分が合唱してみたときにとてつもなく素晴らしいという感覚のギャップを体験していないところだろう。ましてや他の宗教の題目なんて耳障りそのものだから。

耳から入ってくるものがどうかではなく、自分の声が心臓にどう響くかという体験こそが重要であり、それこそが本人が気が付く意識のレベルなのである。

訓練や音楽である程度までは意識を深めることはできるが、その先はもう惜しいというかもどかしいというか、いいところまではいっても、音楽という人智では絶対に到達できない世界なのだ。