あるアメブロの記事を読んでいたら気がついたので、あえて記事にしておきたくなった。
よく日蓮正宗でホウボウ(謗法)といって、教えから禁じられた行為について話題になる。一時期まがい物の創価学会でもホウボウ払いといって、日蓮正宗以外の宗教関連の祭壇や御守りなどを破棄することが暴力的であるなどと批判されてきた。
日本人はいくつかの宗教のグッズや祭壇を同時に拝むという海外では考えられない無節操なことをよくやらかしているので、日蓮正宗が潔く一つの本尊以外拝まない宗教なのは、日本やアジアの一部では珍しいことなのだ。
しかしこれが度をこえるとおかしなことになる。
ある熱心な日蓮正宗の信徒さんが、キリスト教由来の歌を練習したところ具合が悪くなって仕事まで続けられなくなってしまった。そして、それをホウボウの害毒であるというブログ記事をあげていたのだ。
日本人の音楽教育の問題もあるのだが、歌は宗教心の表現であるとは限らない。歌の素材がたとえ宗教であっても具合が悪くなって仕事まで続けられなくなってしまったという話は珍しい。
熱心な日蓮正宗の信徒さんなら、魂が綺麗だからキリスト教の害毒に反応して具合が悪くなったのだと言う人もいると思うが、私は敢えてそういった見方は間違いであると言っておきたい。
昔から音楽にのめり込むタイプの人がいて、どんな宗教をやっていてもそういったタイプの人は、熱を込めすぎておかしくなる。その場合には、宗教色ゼロの曲でもおかしくなるのだ。いわゆるその気になってしまって調子がおかしくなるケースだ。
実は私も信徒ではなかった学生時代におかしくなった経験がある。信徒ではなかったというのがポイントで、もうひとつのポイントは現在に至るまで周囲の誰も調子が狂わなかった。
だんだん何が言いたいのかお分かりになるかもしれないが、そもそも日蓮は、本仏であり、仏様が音楽文化を否定するなんてことはまったくありえない。シルクロードの壁画なんか見ても飛天やなんかが横笛を吹いたりしているが、あれはだいたいバラモンたちが好んだ音楽文化がもともとの素材・題材であり、宗教的には仏教ではないのだ。そもそも音楽を使って宗教家や政治家が勢力を拡大しているのは、どの宗教や国家でもあったことで、壁画に見られるように仏教でも音楽を使っただけである。法華経にも伎楽(音楽付の舞踏劇)という文言がある。
音楽家はだいたいミサ曲風にとか神社の儀式風にとかいう指示によって演奏可能だが、それは時代様式や作曲家の様式によって演奏可能なのと何ら変わりはない。たんなる味付け色付けなのである。
お酒や色ものめり込むとおかしくなる。
音楽にのめり込むタイプも注意しないといけない。
そして日蓮の教えを科学してみると、題材が何教であろうがホウボウにはあたらないことが理解できると思う。たんなる素材に目くじらをたてておかしくなるなんて、愚かしいこと。
キリスト者でないものが「ミサ曲は歌いたくない」という自由意志は尊重されてもよいが、ミサ曲を歌ったくらいでおかしくなるというのは、ちょっと過敏症。歌詞からキリスト者がどんな思考をしているのか学ぶよい機会だというくらいの客観的な見方や解釈ができなければならない。ブタや牛が食べられないで餓死してしまうのと比べるとまずいが、あまりに楽曲にのめり込みすぎということになろうか?逆に日蓮正宗の信徒がそこまでよくキリストの教えを熱心に吸収したものだと呆れてしまう事例だった。ブログの作者たちがカルトの発想に陥らないようにと願っている。
音楽というのは属する宗派にかかわらずクールに表現技術を学んで自在な精神を獲得するのに役立つ便利な科学的ツールなんだよ、と教えて差し上げたくなった。
お酒は飲んでも飲まれるな。と昔からよく言うものだ。
愛してるというセリフをいかに心を込めて言っても本心はまったくありえないということが世の中にはいくらでもある。心を込めているような印象を与える技術さえわかればよいのだ。技術として掴めば、それは日蓮正宗のお題目を唱えるときに、本命でその真偽や深さを峻別する有力で客観的なツールになる。
のめり込むのと真剣であるのは、まったく異次元のことなのだ。
ちなみに私は現在日蓮正宗信徒なので、宗教曲は可能な限り避けるが、なにか自分が表現したいものを感じる場合には、宗教の教えを含めて冷静に学ぼうとする。その害毒性も客観視することにしている。現実に有名な曲がたくさんあって少なからず影響を受ける曲をなにも知らないでは無責任だろうから。
大聖人様がかつて謗法の書籍を読んで研究したことを偲んで、音楽もまた科学的に解釈分類されるべきだと思うのである。