FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

尾崎豊の墓へ寄ってみた

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埼玉県所沢市は東京都との境になっていて、今日久しぶりに都立狭山公園にサイクリングして、目と鼻の先だからようやく寄ってみた。
なんと骨は入っていないらしく、ファンのために遺族が手入れしているのだろう。
寄ってみたと言うが、線香と火を持参して手を合わせてきた。
クラシックの日蓮正宗をやっていても、ロック系やポップス系をやるが、アコースティックギターを使っていたから、中間的な音楽なのだろう。
愛唱した歌を思い出しながら、彼は日蓮正宗の教えや修行ができなかったので、あんな半端なジャンルで人格を崩壊させたのかなと思った。
日蓮正宗はかなり厳格というか融通がきかないエリート思想でもあり、表向きの教義とは違う選民のシステムであり、歌詞からはその厳しさから逃避している姿も散見される。
私の両親が過剰に厳格だったので、いくらか気持ちは理解できるところもあるが、尾崎豊が崩壊していく中で誰一人それを止められなかった宗教であるという事実を信徒は全員一人一人が留意しておかなければならない。
お兄さんは豊の心配をして言動として示したが、暴走を止める力はなかった。
真剣に唱題し、御指南を厳粛に受け止めながら法を弘める行動が大切であり、生きる証しになり、後世にその慈悲心を示すことになる。
どこかでスズメが死に、猫が鳴いたのと同列の人間とは違う、日蓮正宗信徒としての魂魄があの絶叫であり、歌唱でもあった。
私には個性やそれぞれの使命という解釈はできない。
彼は日蓮正宗のしきたりのなかで生き急がされ潰れた可哀想な信徒だったと思う。
いくら充実させたにしても短すぎる生涯だった。
人の幸福に必要なのは、生命の燃焼の方向性の確認作業だ。
みんな自由とか個性とか聞こえはよいが、間違いは修正していかなければならない。
日蓮正宗信徒をやってもそれができない事例があるということを理解するのはとても難しいのだが、寺院や周囲の人間関係がおかしく、しきたりや教えの解釈や修正を間違っていると判断せざるを得ない。
尾崎豊は一面幸福にも見えるが。。。
追善して供養してあげよう。
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