今週のお題が「いも」なのだが、そういえば、さっぱりいもは食べていない。ポテトチップスで何回か食べただけだ。
いもという言葉からは親しみの象徴のように感じる。ありきたりで、身近にあるものだが大事なものだ。栄養価が高くて決して馬鹿にできない。
趣味でバイオリンをやっていて、子供たちの演奏もみんなプロと比較してメリハリが感じられない「いも」に感じられる。
パソコンで音符を打ち込んで再生したようなのっぺりした感じなのだが、生身の人間だけあってもう少し面白い。演奏する曲の質が高いということもある。
つまり非常に栄養価が高くて、聴いているこちらが元気になる。
心の中では彼等も歌っているからだ。
そこがパソコンとは違う。
大人になるにつれて、グレードが上がるにつれて、今度は歌い方を覚える。
バイオリンで歌うのは高等テクニックである。
いもから脱皮して羽ばたくようになるとコンクール入賞になっていく。
その成長を途中であきらめてしまうのがもったいない。
大人でも同じだが、せっかく少し弾くことができているのに、もっと楽しく弾けるようになれば、他人との交流に使えるのだが、そこで終わってはもったいないという方が多勢いる。いもは腐らせるとどうしようもなく手におえない。
昔、バイオリン講師が歌い方を生徒に逐一教えることにとても違和感を覚えたことがある。歌うのは本人の心であって、どう歌うかは本人の勝手だと思っていたからだ。
資質の高い人なら勝手に歌わせて合格ということもあるが、そういう人は滅多にいない。作曲家ごとに歌い方のオーソドックスなものがあるのを掴めるかどうか、こと細かに教えることが多い。
バイオリンは演奏技術が共に歌う技術まで含めた技術なので、歌えなければ楽しそうには見えないし、もし楽しそうであってもプライベートでなにかいいことがあっただけのことが多い。
そして歌えるようになるまでは平等にみんな同じ「いも」なのだ。
そんな時期を通り越えて、やがて春が訪れる。
みなさんのいも演奏を栄養にさせていただきながら、私も春を目指して今日も弓を手にとった。
弓がまっとうなものであることが前提だが、ボーイング(運弓)の基礎が歌心を花咲かせるための第一歩であり、すべてである。
イチから覚えるのは、本当に難しく完全な習得には時間がかかる。
私の弓づかいは変則になっていて改善が非常に難しい。
最初子供のころドイツ式系統の持ち方で習い、次に持ち方を教わらずにフランス式とロシア式を試したが、この試した時期に型を崩してしまったようだ。
今の先生がドイツ式だから、それに従ってドイツ式で覚えなおそうとしている。
改善の兆しはあるが、完成には程遠い感がある。思った通りの弓運びにならないと曲は楽しめないから、非常にもどかしい。むかしのフランス式のときのある程度思い通りに弾けた感覚は忘れてしまった。
最近、右手首を外側に回転させて姿勢が開き気味に変わってバイオリンも少し平たくもつように修正している。ずいぶんと縮こまって基本形が違ってきていたわけである。
よく経験者はスラスラ弾けていいなと言われてきたが、経験がアダになることもある。悪いクセを身に着けてしまったのだから、経験なんてないほうがいいこともある。
しかしもっとも悪かったのはロシア式という幼少期からしかできないものを成人になってからやろうとした自身の自信過剰、傲慢さだったのだと思う。若いころにちょっとうまくいって大丈夫だろうとか自分ならできるだろうとか思ったのが間違いであった。
たとえ仮にでも(たとえ親族の都合であっても)新興宗教などに関わってはいけない。即戦力だけを求める組織は当然に育成を怠っているから、他者を尊重するような態度を装って人を利用しつくす。あとは知らない。後は野となれ山となれの新興宗教と関わったことによる損失は甚大であった。
世の中には人間がおかしくなるような毒リンゴを食べさせる魔女や妖怪がうようよしているから、みなさんも甘い話には御用心を。
みんなで「いも」を楽しむ方がよほど謙虚で健全なのだ。いもには必ず春が訪れ、毒リンゴには必ず歌えないレベルの極寒が訪れる。