さきほど東京都心のサントリーホールで東京交響楽団の定期演奏会を鑑賞してきた。
隣がテレビアサヒとANAコンチネンタルホテルで飲食店街もあり、夕時とても賑わっていた。
お客さんは8割位に見える。
モーツァルトのピアノ協奏曲第21番のソリストは萩原麻未、コンマスはグレブ・ニキティン、指揮は欧州の本格的実力派で申し分ない。
ピアノ協奏曲21番はバイオリン協奏曲3番4番5番と比較してとてつもなく音数が多い。バイオリンの1番のほうがイメージが近い。
ピアノはまろやかに軽やかに時にフレーズごと歌いながらオーケストラと掛合い、融け合う。
シンプルなリズム音形のモーツァルトの伴奏もまた繊細で軽やかに美しい。
フォルテシモやスフォルツァンドが一切ない優しい透きとおった空気感。
乳白色の寒天を連想してしまった。
ニキティン氏の弓運びは精緻に計算し尽くした無駄のない完璧なもので、毎回御手本になる美しさに満ちている。
わたしは、藝大のピアノ講師のユーチューブ動画を参考にして、日々の練習メニューの最善を尽くすがバランスをとったメニュー作成はとても難しいなか、ジリジリ進化している。
今日のソリストも藝大で講師をしているそうだが、欧州の最高の音楽と触れ合った演奏感覚が要件に近いのではないかと思う。
超一流なら同じことで、箔付けみたいになるのは感心しないが、日本はなかなか音楽的人間的には環境が難しいのだ。
ただ確かに音楽的にも優秀な印象で、アンコールにグノーのアヴェ・マリアが沁みわたる。
休憩中は軽食喫茶が再開しているが、ペットボトルのオレンジリーボスティーで喉をうるおす。
席に戻ると紳士が席を間違えていたので教えて差し上げる。
シューベルトのグレイトでは今までどういうわけか、一楽章と四楽章しか起きていた試しがない。
そして今日もまた同じで船を漕ぐ。目を開けると誰一人眠っている人は見あたらず、わたしだけ毎回まぶたがさがる。
バイオリンは約50分もほとんど間もなく緻密に弾き続け、三楽章に到るころにはなんだか申し訳なくなってくるほど丁寧な手間を積み重ねている。
聴くわたしからすると単調な二三楽章は省略してもよいが、ジワジワ盛り上げる効果は確実にあって、万感の胸に迫るフィナーレのためには、やはりどうしても省く企画にはならない。
毎回不思議と四楽章に入る瞬間に目が覚めて、バイオリンの弓の運びの匠さを感覚に刻印する。
最後に感じるものは、人間には誰しも良心と希望を持っていることである。
音楽が人間の眠っている良心を呼び覚ます。
もちろん日蓮が指摘するとおり、人間の良心をこそ悪利用するのが人類の習性だから、善意良心はかえって仇になり隙きになることを忘れてはならない。
人間は定期的に良心を呼び起こす必要があるほど、お互いに信用しあえない。
その程度の生き物である。
帰宅してすぐにニキティン氏の弓遣いを再現しようとするのも毎回。
コンマスたちの繊細で緻密な弓の返しと同期する瞬間の幸福感は毎回より大きくなっている。
昔から豊かな音色がよきソリストと伴奏オケと同調することが生きる喜びでもある。
意気消沈して意欲のわかない昨日今日に射し込む日輪の光。
絶望的な時には、優れた生演奏にまさる薬はない。
まるで貧困ソ連時代に民衆がオイストラフのラジオ放送に酔いしれたように、お客さんたちの3分の1くらいは庶民的な人たちで、皆さんのささやかな楽しみなのだろう。
新自由主義と官僚主義で国が衰退する暗黒時代の奇跡としても、自身の演奏の技量を今一歩上げるためにも、足を運ぶ価値がある。
素晴らしいひと時を提供いただいて、演奏家の労に明日からまた進みたいと感じさせられたコンサートだった。