経済学をひととおり履修して社会のシステムをおおまかに学習したものの、現実にうまくいっている間はよいのだが、なかなか不本意な個人や企業の行く末というものも多い。上場とりやめ、破産、企業再生、差押え、治療の保険適用がない、売り上げ激減、業界の浮き沈み、パンデミック(世界恐慌に)、療養期間がどうしても必要で収入が激減、コロナ危機など、なにもかも上手くいくわけではない。
一生懸命努力してもどうしようもない状況というのが、一生のうちに何度か訪れるものである。それが長く続くと病んでしまったり下手をすると自殺したり失踪したりという悲劇もある。
学問の基礎原理としては、資本主義の社会に生きる我々は、努力していれば仕事ができてなんとかなるという期待のもとに、生活を送っている。
個人企業でも収入売り上げをとにかく上げて稼いでこそ資本主義なのだからとすべては資本のためにと考えるように仕向けられてきた。
おおまかには資本主義のようであり、自由主義を守ろうとする勢力の中に生きている。
しかし、売り上げが即社会の害悪になる場合もある。収益が反社会組織に移転される場合がある。病むことが確実な職業だって沢山ある。
中小の資本家が努力をやめると労働者階級と同じようにあくせく働かねばならないようになるのは同じことである。
資本家のために貢献して労働者が給料をもらって自由を謳歌するというのは、不断の努力とうまくいっている間だけしか通用しない。通貨に運命とか運とかいうものの意味合いが含まれているということになる。
いくら社会保障を受給しても努力できなければ生きている意味はないから、その通貨を使うより自殺したほうがマシだという人もたくさんおられる。
経済学の進化の中で、社会保障の拡充というものと、生存権という概念が成長してきて、現在の欧米の繁栄がある。努力したくてもできない一群の人たちが存在しており、失業者や障害者や高齢者というのは、資本に対して労働力としては貢献できないことが多い。
ではそこまでして貢献しなければ生きていてはいけないのかというモラルの問題である。東洋では昔から親を敬い老人を敬うという道徳があるから、西洋の経済学はむしろあとから生存権を認めたもともとは野蛮な文化だったのであろう。
食料品や衣料品程度なら余剰分や廉価品がたくさんあるから、障害者や高齢者、失業者も別段生きていてもだれも困らないし、むしろ企業の収益に貢献している。
東洋には仏教文化が伝統的に息づいており、この仏教文化、法華経文化によるとみんな平等に活き活きと生きる権利が認められている。
現代の新自由主義というものの落とし穴なのだが、はやりの経済では社会保障がもともとなかった時代(古典経済学の時代)を志向すれば社会保障費を抑制できるという浅はかな考え方が散見される。
日本の社会保障が中程度であるのは、非常によいことで、具体的に仏教文化と欧米の社会保障整備の社会学、発展した経済学によっているもので、改良の余地がほとんどないほど完成されていると言える。
自由という言葉を労働者を使い捨てにして貧困層を自殺させるために使う人たちには、警告をしたい。
自由だからというのは決して人を殺してもよいという自由ではない。刑法に定められた要件とは別に、社会学的に富裕層が貧困層を自殺に追い込むこともまた前近代的野蛮性として忌避されなければならない。
個人の幸福追求と企業の業績のためには、社会保障といううまくいっていない人たちに対する修正政策がどうしても必要である。この抑制を主張する政府は貧困層の人口を抑制する意図があり、あきらかに自殺者を増加させてもお構いなしの新自由主義によっている。貧困層は問題ばかりで面倒臭いからこき使ってやるけれども使えなくなれば早く自殺してほしいというのが彼等日本政府の本音のようである。
日本には、東洋には、仏教文化という平等に個人を尊重する文化習慣が残っており、これ自体は今後も変わらない。もし政府が公平中立であろうとするならば、法華経文化を最大限尊重して、民族がみな幸福追求ができるように弱者に対する配慮をしなければならない。
富裕層、資本家のための政府であればこそ、自殺する人たちに対して数々の政府大臣たちの答弁には救済の意志がまったく感じられないのである。自殺は本人の自由意志であり、本人の疾患によるものであり、なんら問題はないというのだから。人を殺すのに方法が凶行ではないやり方をすればエリートたちは頭がいいと言っている。誰かが自殺してくれると問題がひとつ片付いてさっぱりするという考え方である。
日本人が幸福追求をできるように頭を使えばよいが、日本人の貧困層がいかに自殺してくれるか、日本人の勤労者層がいかに先行消費して無駄遣いしてくれるか、そういった資本、財閥のための政府であればこそ、幸せだと言う日本人はよくても6割にとどまっているのだと思う。
十分に商売ができる経済規模がある間は6割が幸せなら、今までのやり方が通用するが、貧困層の割合がどんどん拡大してきた状況になると、もはや新自由主義の考え方では、幸福な人の割合だけの問題ではなくなり、本来東洋や日本がもっている美質、利点、よい文化習慣を破壊していくだけになってしまうだろう。
私は安全な日本というものを維持していかねばならないと思う。
欧米が大戦を制したり繁栄してきた起点が自由や平等や博愛であり、それらを捨ててまで戦争を遂行しようとした時に日本が大敗を喫し、多くの生命財産が失われたのだ。
自由や平等や博愛といった人間らしさというものは、もともと日本では仏教文化としてしっかり定着していたことをみなさんが忘れてしまったことが、そもそもの日本の頭打ちの原因なのである。大戦しかり、経済成長しかり、すべて頭打ちになるのは、神道政治による猛烈な努力の推奨とか全体主義による資本主義の極端な形によるものであった。
今また、新自由主義で改憲しようとしている状況が非常にわかりやすく自殺行為になっており、国が沈んでも知らん顔できる人たちのIQはほぼ無駄であり有害であると言わざるを得ない。また改憲と全体主義と財閥政治が横行すると、日本社会は混乱して無秩序になり、治安維持法が必要だという政府とマスコミの喧伝がなされるであろう。
民族は滅亡の危機であり、国の経済は衰退が確定している。
ひとつの文明が発展するとき、かならず平等思想というものが見え隠れする。一部のための政治によってその文明は自滅するという法則がある。歴史上、個人の私利私欲のための公務員が多数派をとると不健全な社会である。公務員志願者が一時期圧倒的に多くなったが、その時期こそ日本衰退の分水嶺になっている。
アーノルドトインビー博士という有名な歴史学者がおられたが、その方の著作をあらあら流し読みしてみると、なるほどなという印象だった。
運命の女神がほほ笑むのは共存共栄で平等にみんなで栄えようとする文化を尊重できる政治によっている国または地域である。一部の集団や特権者だけの、一時的な繁栄では結局は混乱に陥って駄目なのだ。
欧米は欧米で行き過ぎた資本主義を修正しながら欧米と世界全体として繁栄しようとしているのだ。全体の繁栄のためなら全体主義もありえるわけで、企業集団のために国全体を使うとか、神道のために国全体を利用するとか、忍従と暴力や自殺を美化するなど、もはやありえない愚かしさである。
大都市に生活しているとややもすると、そのありえない愚かしさを最高度のIQでもって遂行しようとするものだ。特に名誉ある政治的な地位を手に入れたものたちが、そういった教養レベルを忘れるのはいとも簡単である。名誉と報酬だけが約束されていることの危険性を自覚しなければ、死後、末代までも責められることになる。客観的に見れば、人間の心を悪魔に売り渡した、ただの確信犯なのだから。
少し長くなってしまったが、日本国国民全員の幸福追求と、南無妙法蓮華経(法華経最第一)というお題目の意味を一部説明させていただいた。日蓮系で熱心にお題目をひろめるというのがたんなる宗教の勧誘ではなく地域文化経済の発展に寄与する原動力であるというのがもうひとつの側面であると言えよう。
誰かを否定して排除するという発想は法華経文化ではない。それでは個人や企業は繁栄するはずもなく国全体として衰退して沈んでいってしまうからである。この記事にそのような意図はないが、エリートや真面目ぶった日本人は多くの貧困層や高齢者障がい者を徹底して排除し続けているのである。