FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

バイオリンを弾けるようになるのは大人になってからは難しい というのは本当か?

f:id:FujiYama:20210911224703j:plainいきなり難しいという通説に異議を感じさせる題名ではあるが、むしろほとんど不可能だという主張がプロバイオリニストの大勢を占めている。
プロの人だけでなく経験者も、無理でしょと言う人が多いが、あまり言わないのは、せっかく楽しみたい人に対して心苦しいと思うからだろう。
さて、ほんとうのところはどうなのか、どこがどうむずかしいのか、いくつかの視点から記事にしてみたい。

弦楽器を弾けるようになるという表現には幅があるから、そこをまず定義しておくと、正しい音程とリズムで音楽的に曲を表現できるようになるということだと思う。そういう定義で実際上難しいというのは当たっているが、ではなぜ弾けるようになっている人がいるのかという違いが知りたい。
バイオリンやビオラやチェロなどはゆっくり丁寧に練習する必要がある。
大人は多忙な日常が当たり前だからゆっくり丁寧に練習できない。時間的な忙しさというものだけではなく、気ぜわしさというか気苦労というかその様々な毎日の精神的疲労というものが、われわれの心を支配しているために、たとえ時間を見つけてもなかなかよい練習をすることが難しい。
バイオリンの大家は、バイオリンは趣味では弾けないものだと明言しておられたくらいである。
ひとつの見方として専門性が高いので、片手間には不可能だという見方である。
ま、それを言っては記事にならない。
よい練習をするためには何が大事になるか?

歌うことと心
歌心の育て方というのがとても大事で育ちかたは人それぞれ。家庭なら家族が歌ったり楽器を演奏していたりすると育つのは圧倒的に早い。いつも怒鳴ったりわめいたりしている人がいる環境では歌うなんて無理だろう。職場で怒声が飛び交う場合もなかなか歌にたどり着かずに酒に走ることも多い。
人心地という心持ちを入手するために完全に心理を切り替える必要がある人はハードルが高いし、楽器や繊細な音に心を静めて向き合うことが容易な人は、練習がそれなりにできるという違いがあって、その違いはかなり大きい。
音の幅と音程の幅
心を静めて楽しく取り掛かると、音の幅まできちんと聞き取れる。ドレミやビブラートの幅の違いではなくて、同じドの厚みや細さや明るさや色合いが聞き取れるようになる。
音楽する/楽しむ
音、調性、心の変化を音に感じ取れるならば、基礎練習や部分練習を含めた音楽表現の練習に至るまでのラインがすでに引かれているので、弾けるようになるのは時間の問題ということになる。悪い楽器に引っかからなければ、練習とレッスンを継続していくと弾けるようになる。

参考としての視点「仏教の役割と使命」
寺院の読経を聴いていると、所化(小僧)さんと住職の音程が違うのだが、所化さんは同じ音程とリズムでシンプルに読経する。
住職はポルタメント気味に入り、鷹揚さを感じさせるやや芸術性のある読経をする。住職によって個人差はあるがだいたいそういう違いがある。
弦楽器の基礎練習のリズム練習はちょうど小僧さんの読経で、楽曲演奏はちょうど住職の音楽的読経である。
これを大人になってから覚えようというのが、よく似ているので例に使わせてもらうのだが、発音が完全に正しいもので、一か所でも間違えてはならない。音程は導師に合わせ、リズムや抑揚を導師に合わせる。指揮者によって微妙に違うものをピッタリ合わせるのと同じなので、二三回はよく聴いてからでなければ合わない。
いろいろなお経があり、世界にはいろいろな宗教儀式があり、仏教では読経の修行を通して得られる効果や学びとして、発声、合唱、波動、高揚、自己肯定、安心感、深い眠り、賢人化、音楽の選別、無意識の意識化などがあるが、まるで音楽やキリスト教の効果と錯覚するようなものである。

習慣の恐ろしさと力
毎日お酒を飲み続けると寿命が縮まるだけでなく心がすさんでいく。確実に心が乱れる。
毎日音階練習をすると演奏寿命が延びるだけでなく、心が落ち着いて集中力が高まる。
マチュアや大人になってからの人たちは、毎日音程やリズムを少しずつずらして、少しずつ病んでいくほうが多い。
バイオリンに大事な音感を自分で甘く設定している場合は一日も早く修正しないと何十年続けられないし続けても弾けないままになる。
曲からとりかかる場合にも一音微妙にずれたら、練習の時はそこでストップするべきだ。音取りができるまでゆっくり弾いて、音程とリズムがとれるようになってから流して通すというのが手順だ。
音程はチューナーで言うとひと目盛ずれたらアウト。弾き始め音の出だしはひと目盛からふた目盛ちかく少し低めから入ることは許容範囲だが、一音弾きとおす間にすぐドンピシャリの目盛中央に来るようになるまでゆっくり音階練習や基礎教本に取り組む必要がある。

本当は大人も子供もない
子供からやればみんながみんな弾けるようになるかと言えば、実際違う。
音程とリズムをきちんととれる人だけがレッスンの意味があるから、その前提条件を家庭各自で準備できるかどうかが一つの段階で、その習慣づけができるかどうか、そこに大人も子供もない。
子供の場合は親や兄姉らがチェックしてくれる場合があって有利だが、大人の場合はピアノや録音や指導者の指摘という方法があるから、やることは同じ。準備万端で指導者に指示を仰ぐこと。

練習の仕方と到達度チェックを専門家に委ねよう
そのあたりのことは専門家、先達に教えてもらうのが確実だ。独学をすすめる人もいるが、辞典やネットがあって勉学するのに相当するのは、生演奏を毎週のように聴いて専門家にいつでもなんでも聞ける環境が相当するが、同じなのは、試験と採点がなければ成立しない点だ。独学とひとりよがりはまったく別で、独学というならその到達度と習熟度を完璧に評価してもらって修正し続けるところまで含めて独学と呼ばなければならない。
もうひとつは自習、自主練習と独学もまったく別だということである。
そういう意味で専門家に個別指導を受けなければ、チェックがないので音楽や楽器というのは成立しない。
強いて言えば経験者や嗜好性のある人に助言を受けて修正することも悪いことではないが。

専門家は目的別相性がある
なんでもそうであるように、バイオリンひとつとっても、幼児教育、基礎技術、コンクールなど公開演奏、音大受験、室内楽バロック、近現代、ジャズ、ブルーグラスなどの専門家が無数に存在している。なおかつ大人になってから習い始める人たちに本気で指導をするつもりがある指導者は限られた人たちだ。学ぶ側は、教えるつもりがない指導者を見抜かなければならない。練習内容を教えない、練習方法を教えない、弾きたいジャンルと縁がないような指導者ならそのうち変えるべきだし、相性が悪いということもあって、何年やっても悲惨な人がたくさんいるのはとても残念だなあと思う。

上達に誘導する指摘や指導かどうか
人によって段階があるから、適切な指摘や指導がなされれば、その内容を実践すれば上達するに決まっている。
段階をわきまえずに、うさぎ跳びで難しい曲をやれば、うまくはならない。それどころか発達障害が発生する。
九九をやらずに3次関数の問題をやらせるのはとても危険だ。

基礎、教本の技術と音楽のバランス
メトロノームでリズムをとり、チューナーや鍵盤で音程をとるのは、特別なことではなく、それは基礎練習としては必要。しかし練習曲や楽曲ではリズムが揺れたり強弱などの指示を優先するので、どちらかに偏らないように気を付ける。偏りは音楽を形成しない。

音の形と色と香り
特に基礎は音の形を作り、曲は色と香りを作る作業だと思うのだが、楽譜の表面だけでないそういう面を理解するためには、参考になる生演奏をたくさん聴くことが大事になる。教室なら音大進学希望者、ホールならプロを基準にし、その到達度に合わせて耳から直接学ぶことが大事。最初から録音だけで学んだり、間違いだらけの音出しを参考にしたりしては、弾けるようにならない悪い習慣づけになるから用心されたい。

色香美味と良薬
法華経には色香美味な良薬が説かれている。色がよく香りがよいおいしい薬をたとえにして、仏の教えを聴けば、飲めば健康になる。しかし悪いものばかり食べて不健康になるのが現代の食生活で、音楽も同じように、きちんとした演奏を聴けば健康になっていくし、そうでないものを聴けば音楽は成立しないし、弾けるようにはならない。音やリズムが狂ったままで平気になってしまう。
口から入れるものに細心の注意を払うように、耳から入れるものにも気を付けることが肝要だ。

音楽と心の関係
アマもプロも大人も子供も、どんな人であれ、巷の事件事故や病気に満ち溢れたバイオリンや音楽どころではない現実世界で、平穏な生活とよい音楽を楽しむことを望むことは自然な心だ。
でも、どんなにこうしたらよいと聞いても理解したつもりになっても、なかなかできない。
いくら頑張って取り組んだからと言って成果はそれほど見えるわけではない。
練習の効果がわからない場合は、ズバリできていない。
かつて私もそういう時期に悩んだ。
あれやこれやで進まない習熟度から効果のあがる練習に取り組むため、心の平和と幸福のための保険として信心修行を採用した。得入無上道 即成就仏身という経文があるのだが、ひどい時代のあかんたれが仏道に入ってすぐに仏様になる、つまりだれでもすぐにまっとうな人間になって楽器習得くらいはそのうちできるようになる。
結局バイオリンを弾くのに、あれも難しいそれも難しいから無理だという、あらゆる難しさを順番に超えていくことができるのは、まっとうな人間だけである。
良い練習は、一日の中でも、翌日の練習においても、効果が歴然と判るような濃厚なひと時となる。

さらに高次元な弾けるという意味
本番のミスは致し方ない面があるが、音楽は工場の製品のように不良品率とキズものを予定できない。間違えるに決まっているものを演奏なんてできるわけがない。ただの迷惑とか騒音になると誰も楽しくない。
不断の丁寧な練習とレッスンで最小限の小さなミスにし、大きなミスはアドリブで対応するが、演奏するための最低限維持すべきラインがある。
どんなに頑張ってもラインを維持できない時には引退するしかないが、引き際はステイタスや立場によるラインの違いを考えるもので、趣味ならとか大人になってからなら、このくらいでいいやとかいう甘さというか幅があって、これは主観の相違でもあり、一定の線を越えて譲歩するくらいなら弾かないほうがよいものでもある。
それと同時にギトリスの言葉にあるように、演奏に求められる完璧さがいかに精神衛生と公衆衛生に演奏者にとって有害なものかという面もあるから、別になにからなにまで完璧である必要もない。
他人に求める完璧さと専門家に求める完璧さと生死や善悪に関わる完璧さというのは実際上それぞれの事例ごとにまったく別のものであり、CD音源の完璧さと生演奏の不完全さはあたりまえのことだ。
教科書どおり法律法令の規範とアクシデントや間違いの発生はエリートの確率論では片付けられない実際のノウハウで、演奏とか弾けるとかいうのは、つまりそういうプロセスの結果だから、規範とプロセスをおろそかにはできない。
理想の音楽は理想の人間関係であり、人類史の進化過程がさし示すベクトルを無視したものはありえない。
個人の差異とカオスの中で平和と繁栄と幸福と音楽で地域と地球を満たすために人類社会もできるだけ小さなミスと不幸を最小化するために最大限の努力をしていこうという価値観が楽器を弾けるようになるというプロセス全体と一致している。
ここ15年くらいの最近になって特に、完璧さや巧いことより人類社会との調和の感性が音楽の第一条件ではなかろうかと思うようになった。
大人の音楽は私利私欲の自己顕示より品格ある人間性が大切だが、まだ未発達な大人がとても多いのも事実だろう。
共生の社会に,差異に寛容な大人へ、音楽を通して成長していくように願っている。
そういう現代の人類の価値観からすれば、高級車や高額楽器は自己顕示欲や収奪の証になりうる下品なものであり、美しい分かち合いによる名器の楽しみが公益になりうることは地域の希望にもなる。
個人の課題や希望は、ほんとうは人類の歴史の中の一点として見なければわからないし、バイオリンが弾けるようになるかどうかも、あなたが一人で努力するべきことではない。
そして難しく感じるなら、リラックスできる材料をそろえたり、解決の具体的方法をひとつづつやったりして、それでも難しいと自分の心をよく観察してその心を変える必要を認めたら、具体的にまず心を変えるしかない。
ほんとうは自分の心が一番難しい。
私は毎日心の一点突破(日蓮正宗の修行)を進めているから普通は大人になってからは難しい不可能な曲をあまり難しく感じないところがあるようだ。