FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

地獄に狂う日本人とほくそ笑む財閥系 あたりまえの音楽と日本の音楽

f:id:FujiYama:20210908122051j:plainうまいとへた

近所で工事をしているので騒音がひどくてバイオリンの練習ができない。

それだけなら一過性なのでまだしも、雑談しながら仕事をしている内容が低劣すぎて非常に不愉快である。

日本人の特に土木系の人たちに共通している認識レベルというのが、はたして土木系だからではないことにも気が付いているので、あえて日本人の精神性、精神レベルというものが異常に低レベルだということを記事にしておきたい。

子供のバイオリン教室などで、昔の自分の教室ではあの子はうまいとかへたとか言う会話はなかった。そういう会話はそもそも指導者が許さなかった。

祖母が4歳か5歳のころの練習を聞き発表会に来て美しいバイオリンの音ではないと批判否定したことがあったが、これも指導者からすると世界的名手もみんなそうだったから批判否定の発想すらない。

だんだんに年齢と練習と発表を重ねていって誰もがうまくなっていくのかといえば、うまくなるという表現が不適切だということが重要だ。

うまいというのは技術的なレベルとか技巧性に焦点を絞っているから、正しい意味でうまいという使い方ができる場合は、音楽をきちんと理解している人がその音楽表現がうまいという意味合いで用いる。

いうなればアクロバットやサーカスがうまいとか器用だとかいう意味のうまいは、健康ならお金で買えるものだから何ら価値がないものなのである。

貧乏な人が楽器を買えないために下手な人だと言われるのは気の毒なだけではなく不公正そのものである。関西で安い楽器を使ってソロをやっていた時にも、仲間からはそれほどうまくないという評価をされたが、それに近い。興味深いのはプロオケのトップが聴くとうまいという評価になることである。

楽器だけでなく経費がかかるので、日本人が言ううまいとはカネをかけたという意味にしかなっていない。最近の教室で肯定的にうまいという会話を耳にした。私はまだ訓練途中のその子供をほめる間柄ではなかったので聞き流したが、ほんとうはうまいへたでいえばへただった。あえてへたなどと言うのは、愚かだし失礼にあたるが、なぜ失礼かと言えば、誰しもその後訓練内容によってプロになれるし、ほどほどうまくなれるからである。実際のその子供は桐朋に行ったから今頃プロになっているだろう。

正しく音楽を理解して表現するのがうまいという意味で、私は昔先生に褒めていただいたことがある。平均的な音大レベルになっていく見通しがある生徒としてきちんと評価いただいたが、その頃の音楽表現と演奏のレベルを基準として今の自分を評価する習慣がある。日々の練習内容や録音してチェックするときに、これはよいとかもう一歩だというものを、独りよがりではない基準をもってある程度まで評価できるのは大切な基礎である。

30代になって久しぶりにバイオリンケースを開けて、あるド田舎で時々弾いていたらよくわからない芸術のうんちくを披露する新興宗教の人たちからへたくそだと馬鹿にされたが、まあ音楽がわからないからへたにしか聞こえない。楽器が工房製だから表現力がないのを差し引いて音楽がどうなのかを評価するのが大人の目線だということがわからない。その後数年して名門教室の合奏発表会に出るなどするとうまくなったと言い出す始末。もともと同じように弾いていた同一人物をこき下ろしたりおだて上げたり、いかに音楽をわからないか、バイオリンを知らないかということを改めてわかって、その地域の庶民のレベルが世に知れ渡ったのである。

どちらのご出身でいらっしゃいますか?という場合、偏見でも差別でもなく正しい指摘になることがある。

子供がうまくなるのは簡単でよい楽器でレッスンに月4回程度通って発表会やコンクールなどに挑戦すればよい。

これはほとんど誰でもできることで、うまいのではない。

家計がうまくいっているだけである。

 

文化の蓄積継承と責任

日本人の伝統には資産の蓄積と一体の文化の継承と技術的文化習慣というものがある。

古神道四書五経、日本史文物などと洗顔、入浴、勤労、寺社参りなど、われわれの生活は一朝一夕には成立していない。ローマは一日にしてならず。

昨今の日本の世相や日本人の考え方には、そういった文化を完全否定する空気が蔓延している。人間は平等だから遺産を不正だとみなし、生まれつきの才能だけで公正な競争をしているつもりの哀れなユダヤキリスト教奴隷たちである。人間にはみんな平等な面もあるが、明らかに不平等な面もある。

経済的資産がある人、教育的資産がある人、文化的資産がある人、健康資産がある人、地理的資産や言語的有利性などの各個人の差があることは間違いない。

日本文化には、ある人がない人を支配下に置いて搾取したり虐殺したりする残虐性の側面とある人がない人に対してうまく施しながら教育して幸福を実現させるという知恵の側面が併存してきたが、これは世界中どこでも両面性があって、そのバランスをとっているが、戦後の日本ではバランスが崩壊している。

音楽を正統に理解するためには、正統の音楽に触れなければ不可能である。触れるためにはコンサートに行くしかない。

欧米では、近所の公民館レベルに近い教会に行けば、しょっちゅう無料かワンコインで音楽が楽しめる。

この時点で音楽をわかれと言っても難しいハードルがある。

しかしチケットの価格が3000円程度からあるので、居酒屋に行くレベルでは高いとも言えない。しかし資産家が有利なことは間違いなく、留学とイタリアンオールドでマウントをとるだけの道具になりがちなのも否定できない実際のところ。

日本人の場合、音大卒や留学組ですら音楽がずれていることがよくある。韓国人や中国人の演奏にも違和感がすごい人がたくさんいるが、日本人とて例外ではない。

つまりたとえとして音楽を理解する以前に外車に乗ると価格とメンテが異常に高額だから、金持ちにしかできない芸だという社会通念が形成されがちだということをまず理解しなければならない。

どこの教室でもどんな音楽家でも、先立つお金がない生徒が不利なことは熟知しているし、やればだれでも上達することも知っている。ただしよいお手本や目指すところがない人はいくらやってもうまくならない。

日本の伝統や習慣を踏まえつつ欧米の文化を学ぶという二重に経費と労力がかかることをあえてやろうというのは大変だが、先祖に対する感謝としてもやるべき人たちが存在している。逆に言えば、みんな平等だけに振り切った場合には、日本の伝統も欧米の音楽文化もどちらも成立しないし、存在を許されない。だからこそコンサートに足を運ぶ人が極端に少ない。さまざまな資産がある人は、その資産を活用して社会貢献するべきであり、嗜好によっては音楽と音楽表現を学ぶべきだ。

なぜ日本人は音楽をぜいたくとか無駄だと言うのか。

 

徒弟制度と適正性の担保

みなさんがバイオリンだけでなくクラシック音楽に関するもの、伝統芸能に関するもので弟子入りして師匠につく形式があるが、これは一長一短あるが、必要性がある。

都市部にある音楽教室などでたいして続かない生徒さんがいくら存在しても、音楽や芸能のレベルに到達することは難しい。

やはりきちんとした師匠について稽古するのが鉄則である。一短というのは、わいろ政治みたいなことが横行しがちになり、謝礼が高額になりすぎる傾向にある点だ。まずい楽器をつかまされるまたとない機会にもなる。

良心的な指導者を前提に、海外の無料同然のレッスン代を念頭に置いて、きちんとした音楽に触れながら、きちんとした指導と稽古で上達することは、どうしても必要だ。

欧米では演奏バイトの機会がとても多いから、演奏家は育ちやすい。日本では年一回の発表会しかない人たちが、いったいどうやって上達するのだろうか?

発表会は理解できるが、発表の機会のために、公開演奏の練習のためにコンクールばかり出るのが当たり前という銭形平次みたいな浪費の機会になっていることも問題が大きい。

たとえばバイオリンを弾いていると特別な楽器を特別にやっている特別な人のような扱いをするのもおかしい。

贅沢な生活を前提にする人が蔓延すると文化性が損なわれる。

そういう適正化の心がけは誰にとっても必要だから、指導者の資質が試されるところだ。

 

自由と権利の乱用から狂気は広がって

葉加瀬太郎氏とか高島ちさ子氏とかが商業音楽に振り切って活動していることはみなさんがよく御存知で、そこには一過性の楽しみ、一時の快楽としての音楽でいかに集客するかとか収益を上げるかという方向性が如実に見て取れる。

オリジナル曲や勝手な編曲を乱発して、ほんらいの音楽から乖離したポップス系商業音楽になってしまっているが、それをなぜか日本的なアレンジだと文化として認めるという流れがある。

私個人としては、そういう音楽はありえない。

すぐれた音楽作品は真理、愛、慈悲、心、健全性、聖人、責任感の発露発現であって、快楽とはまったく次元が違う総合芸術の一分野である。

ただ楽しければよい人は、音楽に関わらないほうが無難で、金もうけだけしていればよいのなら、九分九厘の人にとって音楽は向いていない。日本では皇室か財閥が趣味でやるものだ。

楽器についてたくさんの記事をあげてみたが、演奏や音楽についても9分9厘が理解していない現状があり、音楽の楽しみ方、深さ、芸術性、魂については、その価値がわかる人はあまりいない。

うまいへたから書き始めて、まず成長段階を無視し、演奏環境や個人の資産状況を無視し、音楽そのものを無視し、欧米の精神性を無視した現代の日本人がどれほど野蛮で野卑な感性によって生存しているか説明したが、これはとてもおぞましいことだ。

歌舞伎を見に行って、そのよさが理解できる人の希少性と、音楽を聴きに行って、そのよさがわかる人の希少性は、大きく見るとそれほど大差ないレベル。

富裕層だけで政治が動く、その原因は宗教だけではなく、文化的なところにもある。

ただ科学とお金だけの価値観になってしまうと、みなさんが教会から離れたように、音楽から離れる。それと同時に、健全さや深さなどの文化習慣のレベルが低下し、今だけカネだけ自分だけという無責任な世相になるし、その結果、日本人は育成をしなくなり、成長の途中にあるものを非難したりこき下ろしたりすることに抵抗がなくなっている。満足に教育もしないで働けという家庭が増え、研修費すら惜しむ企業。

資産のない人たちが、もともと文化を理解できずに、子供や見習いを虐待したりいじめたりすることが当然だという習慣・風俗として言いたいことを言っているだけだという見方もできる。そしてまた下層や雇われ人は努力のない低劣な精神の低級な人間であるという身分制度のなごりが顕著な日本文化のありようでもある。

九州でも関西でも関東でも、ヤバい日本人というのがたくさんいるから、絶対に関わらないようにするべきだ。死刑を存続させる根拠は多くの日本人の低劣性・野蛮性にあり、彼らが変わらない限り、おそらく政府富裕層は動かないだろう。死刑と低賃金で十分なサル扱いの理由かと思われる。

日本で音楽をすること

心地よい音楽という一般受けの基準もあるが、楽器が良ければだれでも心地よくなって、それは酒場で甘い音を聞いて楽しむレベルに終わる話であって、正しい音楽ではない。エンターテイメントやアミューズメントとしての音楽だと分類仕分けするべきだ。

広く一般国民が公益性を認める共有文化としての音楽は、粗悪品は別にして楽器や緯度経度の違いには左右されない人類の普遍的価値に基づく蓄積と継承と責任ある大人の振る舞いそのものである。極論すれば生き様そのものが音楽であり、舞台に上がるということはそういう意味があり、高名な方も仰っていたが、舞台のそでから姿を現す瞬間から音楽は流れている。

日本人が日本の宗教や文化に根差しながら欧米を中心とした音楽をマスターできることは少ない。なおかつできる人が評価されることも少ない。

音大に行ってもさっぱりうまくない人たちが大勢いる。

ほんの100人程度の欧米では普通の人たちが、日本の音楽業界で特別な立場をやってギルドの親方をやれる。かれらは確かに年収も数千万クラスになることがあり、ほどほどの評価をされているが、ほとんどは欧米では下のクラスの安い報酬の安酒場系の仕事に甘んじるしかない。スタジオやホールは立派だが音楽が安い。

9割以上はボランティア仕事ばかりやっている。

たいていの庶民は音楽を知らないからその価値もわからない。

評価できれば育成を考えられるだろうが、わからないからへたくそと見下して卑下することしかできない。

東大に行きたがるしかない日本の若者。留学したがるしかない日本の音大生。官位官職で安定を求める日本人。身分階級で私利私欲に走ることを幸福だと思う動物的なレベルの低さ。

公正さなど理解できないのが当たり前の感覚なのだ。

人は環境を選んで生きており、それによって感性が違うから、言語の解釈理解がまったく異なる。

その第一は、音楽であり、宗教であり、風俗習慣であることを思い返して、自分の選択が正しいどうか、今一度考え直す人が出るように願うばかりだ。

日本に原爆を投下した理由は様々だが、日本人が狂気の感性を貫いた結果、アメリカが判断をする材料が整ったという見方もできる。狂気の具現化が広島長崎という帝国財閥政治による軍事基地であり、そこを目標に選ぶのは正常である。

狂気と対照的な文化性を保持する歴史的エリアという京都を爆撃しなかったアメリカ連合国は公正な戦争を戦ったともいえる。(かつては公正さを主張できたアメリカの財閥も今後帝国財閥としての困難な運命が待ち受けている)

大石寺に攻め込んだ武田信玄はあっという間に、家ごと滅亡する。

狂気と正気の違いをまざまざと見る。

九州関西関東で耳にした、共通した土木系労働者の笑い声に狂気を感じ取ったので記事を書き始めたのだが、日本人の9割くらいは同じような感性なのでよくよく考えていただきたい。

論理的思考、科学的実証、歴史的知見、宗教的霊感、学術的常識などの人間としての基礎のない人たちに考えろと言っても無駄だろうが。

元気のよい動物は低賃金で労働させて安い酒を飲ませておくのが一番だというご意見もある。

日本の現実はそうなっている。

酒タバコに興味がなくて知性を理解できる自分がいかに幸福な人間であるかということを痛感しつつ、そのことが出家と修行の理由になった釈迦の心境までもが想像できる。

大衆の、狂人に対するいたいたしさと慈悲心というのが仏教の起こりなのである。

階級社会に疑問を持たないアジア人も情けないが、人類のための音楽を用いて特権階級を作るアジア人もなんだか理解できない。

原水爆を落とされないためにはユダヤ財閥に媚びればよいという浅はかな知恵しかない日本人富裕層の程度を見る限り、傾向として日本文化は凋落の一途をたどるしかなく、日本人のレベルは動物以下のまま、いやさらに浅ましくなるしかない。

自分の資産か財布が大丈夫かどうかしか理解できない、知恵遅れのサルに文化なんて理解できるはずがない。信心ができるはずもない。公正さより収奪や虐殺に走るしかない。音楽イコール浪費という文化性ゼロのお国柄。

あの程度の労働者には賃金支払いは一円でも惜しい。

同じ使うなら外国人労働者のほうがましだ。

狂人の国で音楽するのは不愉快だから、未来世は欧州の中流以上の知識人の家庭に生まれたいものだ。

ピラミッドの世界観と同心円の世界観を同時に成立させている欧米文化は優秀だが、ピラミッド以外理解できない日本人たちはどこまでも愚かしい。

そういう音楽の価値は高級外車の自慢だと評価され、欧米とは対称的に9分9厘の大衆からは見向きもされないのである。

日本の場合、富裕層も勤労者も、どっちもどっちの低レベル低次元だというのが結論である。一部の喜びをみなで分かち合えというのは無理な注文である。贅沢の喜びではなくて音楽の喜びを共有したいのだが、完全に贅沢バイアスが優勢すぎる。

したがって我が国において、よい音楽は絶対に存在しえない。

世界からヴィルトゥオーゾが消えた時代によるものとあわせて音楽は不可能である。

あわれにも音楽しているつもりの専門の夢遊病者みたいなものだと考えるしかない。

看護師や下っ端弁護士や土木技師などの下層階級が言うように、うまい人はうまいだけの道具使いにすぎないから、遊び人の贅沢という評価をされる次第なのだろう。

 

あたりまえのこともたくさん書いたが、とても長くて難しい記事になってしまったから、記事の価値はほとんどないと評価されるだろうし、多くの日本人に好かれるような内容でもないなと思うので、ここらで筆を置くことにする。