予めゆっくり弾くように言われたのに、思いの外ふつうの速さになって、散々なことになった。
予想通り、難曲を弾けないようになっていて、また丁寧に少しずつ練習しているがレッスンまでには間に合わない。ただ練習が良ければわずかながらでも進歩するからまだマシだなと思う。よーーく聴かなければ3度音程がズレている。音階の3度もよーーく聴かなければズレるから、軽度のボケ状態だ。
それからフェルマータの次の入りの間をどのくらいとるか?呼吸!!!
焦らないことが、どうやら課題。
前の先生もそこは違う言葉で言っていた。
kalm down.
落ち着いて。
なんだか日本時間に追われ、なにかに追われている感覚、無理解と政治的強迫観念との闘いか?
心を鎮めて、取り組めていないことが多いということだ。
自分の呼吸が自分の呼吸で無くなっていて、音楽的フレーズ感、リズム感が乱され切迫感に破壊されてきたこの15年以上を回復させるのは容易ではないかも知れない。少しおどけた感じを出す箇所を杓子定規に弾いたりするのはダサい。豊かで美しい4音ピチカートをスカスカにして平気で居た自分を信じられない。
15歳以降、流民、難民的な、ホームレスのような冷遇を受け続けた結果でもある。
落ち着くはずがない。
母方の祖父母宅もなくなって、居場所が完全に失くなった。
非人道的カルトが自宅と生育環境を占拠して久しいが国に救済策はない。悪質な警察もまったく仕事はしない。
少しだけ落ち着く環境で少しだけ練習して少しだけ楽しむ半身腰くだけの結果が演奏の中途半端さなのかもしれない。
しかしながらそうはいっても次から次に練習課題が浮かび上がる複雑な楽しさがある。
まだまだ確実に良くなる。
出来る間は向上心をもって前向きに楽しく演奏しておく。
いつか訪れる死、健康寿命から逆算してなかなか厳しいなと感じながら。
以前にも書いたが、寿命があと1年半くらいなので、クララ・ハスキルのように音楽できなくなる時がその時であり、悲しい別れが近付いてきている。本人は自分の意志でまったく自殺はしないし、努力してきただけだ。
効率的に努力しなければもう時間がない。
いやましてバイオリンの先生の有難みが心に沁みる。
バイオリンを弾いたから寿命が縮まるのではない。
カルトが専門家に育成しないまま冷遇するから寿命が縮まるのである。
政治的救済策でバイオリン演奏の技法を学ばせることが出来るかどうか?
努力することはやぶさかでないものの、学習環境がなくなれば健康を害するだけのことだ。
レッスンの指導はとてもわかり易くて理解できる。
練習したぶん正味だけ、向上する。
一時期など居宅がなかったし、食費も交通費もなかったが、あと1年半位はそんな心配がないから、人生で1番幸せな時になるのではないかと秘かに期待をしているが。。。
余命宣告が1年半の中で演奏を楽しむことは、なんだか深いものがあって複雑な辛さと喜びが交錯している。
神仏がいかに偉大であれ、科学技術がどれほど発達しても、宗教家や医師弁護士たちを信じてはならない。
作曲家や演奏家を育成する大変さ、音楽を紡ぎ出すトータルの大変さを彼らはまったく解らないのだと思う。
神を見出したのは、聖職者ではなく、芸術的な作曲家や演奏家こそが時に無意識的に時に意識的に神を説き、人々を祈りへ神へと向かわせたのだ。
科学技術が役に立つのは、芸術と神の信託信頼があればこそである。
そのつなぎの大役、バイオリンの先生というものは本来尊敬すべき究極の愛そのものだ。