先日のニュースで、著名人が男性差別発言を発信したとかで、袋叩きにあっているのを少し斜め読みした。
汗をかく男性に一日数回のシャワーや制汗グッズを使うように勧めているだけなような気もするが、男性だけが汗臭いと断定しているのが問題なのは確かだろう。
まず、汗臭いからといって、一日に数回シャワーを使用できる人は限定されている。
それは女性にしても、そんなにシャワーを使用できれば恵まれていると言える。
制汗グッズは無料で配布していないから、所得による差別や偏見という面も出てくる。
シャワーなどなかった時代、そもそも汗をかくという現象は、何かの労苦とセットで起きる勲章であり、お疲れ様ですという時代が長かった。
そして現代でも、まだそれは一定の文化として尊重されるべきだと思う。
亜熱帯化した日本列島では、昔よりもむしろそういう文化が求められているかもしれない。
ただ、日中を含めて数回シャワーを浴びることができる人たちや制汗グッズを苦も無く購入使用できる人たちは、どう考えるべきか?
マナーとエチケットとしては、周囲に配慮するのが当然だろう。
そう考えて、汗の臭いに対して寛容な姿勢、心構えでいることが人間として大切なのではなかろうか?
最近読んでいる聖書の一節には、手を洗って食事をするしきたりをどう捉えるべきかという話がある。
キリストの時代には、衛生的に、伝染病予防は考慮していないものの、手を洗って食べるべきだから、しきたりは絶対的なものであるとする人たちがいた。
その場合の衛生観念には神に対する信仰心や礼儀のような意味合いが含まれている。
しかしキリストは、そういう人たちが、神を口先だけで拝んでいる人たちだと言い当てる。
そしてキリストの弟子たちは、あえて手を洗わずに食事をしたという。
いわゆるキレイ好きと自分たちでいう人たち、衛生的だという人たちが、本当に美しいかどうかはわからない。
シャワーを数回浴びて、臭う洗濯物を3週間放置している人もいる。
制汗グッズを何度も使って、弱い者いじめを平気でする人たちがいる。
宗教や信仰は様々なのだが、シャワーも制汗グッズもほんの一面、一要素にすぎないことは確かだ。
では、周囲に汗の臭いを配慮できる人が無臭にできたとして、本当にそれは衛生的なのか。
汗臭い他人に対して、その人は何か具体的な支援ができただろうか?
東京には銭湯やコインシャワーが無数にあるが、数百円とタオルと下着をできるだけ多くに行き渡らせる財団でも作ったらよいのだ。
駅で制汗グッズを配布すればよい。
事情がある人達のほうが多い。
私は毎日数回シャワーを浴びて、制汗グッズを使用していたが、褒められるべきではなくて、できる範囲のことをしていただけだ。
できる範囲なのにしない人たちに意識を持ってもらうためには、その有名人が発信することは本来は効果が見込める。
ただ、男性という枠で突っついてしまったために、大変なことになった。
衛生観念をもっと性差で言えるだけの科学的根拠を説明できる場ならばそれほどは問題にならないのではないか?
科学的根拠すら偏見からデータを収集すれば怪しいという面を持っているが。
通説からは男女で間違いなく衛生観念は異なるように見える。
しかし、真実は男女差ではない。
所得や宗教や共同体規範などがその大きな基準の骨格である。
いかなる人であれ、汗臭いことを批判することには慎重であるべきなのだ。
くだんの有名人は躾や学力や技能があるからまた活躍の機会があるだろう。
そしてそれもまた、資産や宗教や共同体規範によってなされる再起の機会であり、人間としての美しい汗になるし、彼女はその汗を周囲に振りまくようなことをしないほうが賢明である。
わたしはこんなに大変な苦労をしましたと感じさせないほうが、汗臭くない。