卓球選手の早田は8月13日の帰国会見で「行きたいところの一つは(福岡の)アンパンマンミュージアム。あとは鹿児島の特攻資料館(知覧特攻平和会館)に行きたい。生きていること、卓球ができているのは当たり前じゃないのを感じたい」と語ったそうだ。
アンパンマンと並んでいるところをみると、何気なく語りたい内容なのだろう。
特攻資料館がいかなる趣旨のいかなる施設であるのかというところが、おそらく日本人の多くにはそれほど外国人から非難されるようなものであるとは感じられないから、何気なく語ったのだと推察できる。
国内向けのつぶやきとしては大きな問題として取り扱われることがない。
さらに外国人に非難されたとしてもあまり気にするべきではないと考える日本人が多い。
靖国参拝問題にも似たような面がある。
国際的な立場からみると、特攻の精神顕彰の意味合いをどう解釈するか、とても慎重にならざるをえない。
日本人の優秀さとしての側面と日本人の危険性としての側面、どちらもある。
早田はおそらく平和の尊さや自分の置かれた境遇に感謝したいだけなのだろうが、沢山の視点の沢山の多様な人たちが賛同したり肯定したり批判したりすることはありきたり。
現代の日本においても、過剰な自己犠牲を若者に強いる悲しい文化がある。
いかに優秀なスポーツ選手であれ、自覚するかどうか別にして自己犠牲を受容している人は世界共通で存在している。
それが、どの程度、どういう性質の自己犠牲なのか、なんのために犠牲を払うのか、というところが問題なのだと思う。
アジアの代表的な立場としての使命を果たせる犠牲、自国の国威のための犠牲、チームのための犠牲、一族や知人のための犠牲、すべての戦没者のための犠牲、日本軍軍人軍属のための犠牲、今を生きる若い同世代のための犠牲、またそれらに反する効果を持つ犠牲などなど。
そういう広く深い視点で考慮しぬいて一回一回のコメントを発するようなスポーツ選手はそれほど多くいないのかもしれない。
さりとて全くいないとまでは思わない。
何気なく聞いていると、アジアの戦争犠牲者に対する悪意までは感じないコメントなように見えるかもしれない。
しかしながら、善意だけで誰もが受け止められる資料館とは言い難い。
日本文化の良さは、特攻に象徴されるものではない。
むしろ悲劇と自己犠牲の極めつけなのだから、日本文化が最も悪く出た事例のうちの一つだと言える。
日本文化の精神を褒めるならば、別の建設的で平和的な精神を褒めるべきだから、その資料館の賛否はどうしてもつきまとう困難さでしかない。
別の見方をすれば、日本代表の早田が特別な立場にあって、他の若いみんなは過労死したりパワハラやセクハラの犠牲になったりしても仕方がないという見下したような発言と受け取られかねない。
そんなふうに考えると、コメントというのはとても難しいものだろうなと思う。