愚問だが、それぞれの価値観を今一度再考するのもよい。
人それぞれというのは、あてはまらないのがクラシック音楽鑑賞の機会の重要性だ。
たとえると水を一日当たり2リットルから3リットル飲まなければならないように、それぞれ誤差の違いはあるが、結局ある程度の水は必要だ。
いや私はそんなもの要らない、無料コンサートが必要で、有料コンサートは行かないという人がいる。
貧困層はいたしかたないが、そもそも無料に限定すると楽しみが減る。
所得・家計が小さいからという発想も間違いだ。
鑑賞する必要性と良い音楽を溢れさせる必要は一致している。
よい音楽を溢れさせるためには、ある程度の経費をみんなで負担する。
税金や財団の資金が潤沢になるように政治経済でベースを固めつつ、ある程度はチケット代を負担することが大切だ。
そうすることで、平均して廉価なチケットつまり鑑賞の機会が多く担保される。
高額なチケットを拒否することと同義なのだ。
そういう流れをつくるためには、政治指導者の、経済リーダーの人間性をよく民が審査することだ。
レベルの低い、粗野で野蛮なリーダーをみんなで選んだら、高額なチケットのコンサートだけになる。
手間暇かけた音楽の質に対して対価が流れるような社会経済制度にしていくとよいのだが日本ではまったくそうはならない。
質の低い贅沢なクラシック音楽があふれる。
特権階級と奴隷の社会制度に終始する不幸な日本人はあわれだ。