FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

音楽成立要件

クラシックバイオリンやクラシック音楽が好きなので、音楽が成立する要件について考えてみた。
われわれ一般的日本人のクラシックファンの割合は極めて低い。しかし首都東京のクラシックコンサート売上・消費規模は欧米の首都にひけをとらない大市場なので、決して日本人がクラシック音楽を忌避しているわけではない。
演奏家がいて聴衆がいてコンサートが成立しているので、音楽が成立する。
演奏家は作曲家と聴衆に敬意を持っているが、まず演奏内容をきちんとするのが先決なので、作曲家と作品を研究把握している。しかし聴衆を個人的によく知らないことが特に大ホールなら普通にある。小さなホールであっても聴衆も演奏家をよく知らない。一方で作曲家や作品はよく知っていることが多い。
基準は音楽で、その場の知らない人間ではない。有名な演奏家であってもプライベートはそれほど公開しない。
もし商業演奏だけであれば、知らない人たちが集まって音楽を心底楽しめるのか?という疑問があるが、なんの疑問も抱かない方が多い。
商業演奏だけでも美しい音楽を楽しめるではないか!オマエはアカか!とネットなら非難されそうだが、見当違いなものは気にしない。
クラシックバイオリンの教室に通うと基本的に恵まれた家庭の方が集まってレッスンを受けている。家庭の音楽レベルによって、先生の指導内容や習得する早さなどが明らかに違う。素養としてクラシック音楽をよく知っている家庭の方が圧倒的に有利。キリスト教系の家庭やミッション系学校の家族や生徒や留学経験がある人たちが有利。
もともと日本のクラシックではないから当然のことだが、戦争に負けて連合国を恨む人たちにはクラシック音楽は愛せない。負けて喜ぶのはマゾかと言えば、そんなこともない。
このあたりの背景をクリアしている人しかまずクラシック音楽をやろうとかコンサート行こうなんてならない。
音楽的素養と民族宗教的執着の問題をクリアできるのが家庭の音楽レベルということになる。
ところでクラシック音楽といえば西洋音楽を指すくらいその普遍的価値とレベルの高さは折り紙つき。
作品レベルの高さはどこから来ているのかと研究するとユダヤキリスト世界の教会文化が原点に認められる。今でも教会で皆さんが音楽を楽しめる環境が維持されている。継続的に人の成長と死を取り扱う場で、つまり真剣で真摯な場で、お互いの尊厳を認めあいながら、音楽に浸り楽しむ文化がそこには存在している。作曲家たちが皆さん教会とうまくいっていたわけではないが、教会を全否定するような極端な人はおそらく稀だ。
人間の崇高な感情や日常のありのままの感情を作品にして皆で鑑賞することが、コミュニティの人間性の維持に有効だという共通認識がある。
日本人はキリスト教徒の数がわずかなので、キリスト教徒だけで音楽を今程消費できるはずもなく、音楽ホールで見ず知らずの人同士で音楽を楽しむ文化。これはとても不思議な感じで、ベースになるコミュニティがほぼ見えない中で楽しむのは、ある意味不自然な気もする。寺や鎮守の顔見知りの中では、西洋音楽をやらないわけではないが、ユダヤキリスト教会ほど盛んではない。寺や鎮守でも演奏が増えると日本人が変なこだわりを捨てて大人になる感じがしてよいのだが、全国的にはまだまだかなという気がする。
なぜこの記事を書こうと思い付いたかというのが、個人レッスンだけでバイオリンの勉強をしていて多少孤独を感じ、信者でもないのに昔アメリカの教会などで簡単な演奏をしたことを懐かしく思い出し、幼児教育の教室の思い出が蘇ったからだと思う。
小さなホールのコンサートはとてもよく顔が見えるが、見慣れた顔はまずいないことが多い。
それでも音楽を素晴らしいと感じるのは、演奏が技術だけではなく作品の魂をいくらかでも伝えてくれるものであり、演奏家が作曲家に対していくばくかの敬意を持っているからだろう。
東京には同じ教室だった演奏家たちがいるので、ありがたいことにいくらか孤独は少ないが、技術習得の地味な毎日の孤独は別ものだ。
いざ演奏となれば楽しいのは間違いないのだが、準備は真摯で地道な作業であり、音楽文化と作品に対する熱意なしには到底できるものではない。子供なら美味しいもので釣れば頑張って練習するのだが、大人の成果の見えづらい段階においては、魂の勝負になってくる。
私利私欲や個人的名声や格好などでは、到底努力し続けられるものではない。
音楽は演奏も鑑賞もオトナの文化だなと思う。その味わいを広げ深めることができる自分であることが、自分の人生の幸せなのかなと思った。
魂の深い次元のメンテナンスが欠かせない。f:id:FujiYama:20210525235455j:plain