人類の歴史にしきたりや規則などはずっと役割を認められてきた。
そしてそれが無意味を通り超えて、規則によって人間がまともに生きられない場合も発生してきた。
日本人なら学生時代に誰しも一度はいくつかの規則に強い疑問を感じたことがあるだろう。
仏教では小乗仏教に分類される無数の戒律に厳しい教えがある。
ユダヤ教の戒律の厳しさはさらに有名だが、規律戒律などには多少なりの理由があって定められている。
そこで日蓮やキリストが出現して民に人間性を阻害したり生命を危険にさらすような規則戒律を捨てるようにすすめた。
そこで過剰に厳しい戒律主義はいったん害のあるものとして周知されたが、戒律が整理された時代からあらかた二千年も経過すると、道理としてのその反動が起こってきている。
日蓮を本佛と仰ぐという創価学会や大乗仏教の最大派念仏宗などは、仏教上はほぼ無戒であり、無戒では人間は実際上は生活しづらいため、逆に神道を優先するようになって、かえって神道の戒律に忠実となった。
キリスト教も新旧教で互いの罪をゆるすことや戒律不要ならと法律を無視して無制限な自由と快楽へ走る風潮が生まれた。
つまり古代からの規則戒律とは異なる必要な法規すら守らなくてよいというために治安が悪い状態が常態化している。逆ブレである。
現代の進化した法規はほぼすべての人がほぼすべて遵守可能で遵守すべきものである。
日蓮「無戒」やキリスト教「ゆるし」の無制限な放任と自由によって人間を大切にするためだからと法規を無視することを優先しすぎて、かえってひとりひとりの人間は粗末にされ尊敬されない。いつだれが殺されても「ゆるし」と「無戒」なのだから当然だ。
現代法は各人間の尊重を基礎に作られているものが多く、法規の遵守は他人の人格を尊重することに直結する。
悪法ならいざしらず、遵守しなければ誰かが泣く。
近現代の自由主義が危険なのは、その流れで他の生命を軽視するからだ。
独善性や自己中心的な習慣を助長するためだ。
3大宗教で規則戒律を軽視し、現代法規を軽視し、広範な自由主義で現代法規を軽視し、キリスト教を敵視するために現代法規を軽視し、地域性や民族性などを尊重すると称して法規を無視すると、総じて世界は混沌とした悪魔が支配する無法地帯になる。
それがカオスの正体なのだから、厳しすぎない本来の人間の幸福のための適切で適度な法規に対する認識のもとで、社会生活や共同生活を送るための規範や学びの場が必要だということが理解されなければならない。
私は私であって、誰かに何か命令されたくないと感じるのは、全人類共通だが、ひとりでは誰も生きられない。
避けられない人間社会の中で、最大多数の幸福を実現しつつ個人の自由を担保するためにこそ、必要な規範や法規が存在しているのである。
どの地域国家にあっても、すべての人間の魂或いは人間のいのちを尊重する観点から、それぞれの悪法がどの法規、法律であるのかは歴然としている。
情況が変化して新法を作る必要がある場合もあるが、いずれにしても目的は人間の幸福でしかない。
動物としての幸福だけではなく、精神性ある人間としての幸福について、結局は日蓮やキリストの教えに教えられるところ大である。
浅はかに自分の幸福を決めてしまうと、10年後に青ざめるほどの大損をする程度の人間がすべてだからである。
私は賢い、優秀だ、頭がよい、順調だ、などという程度では絶対に間違いなく例外なく失敗するのである。
そういった不完全な人間が適切に規則順守を楽に自然にできるようにあるのが、本来の日蓮正宗でありカトリックなのである。
教えを正しく解釈すれば、どちらも最重要な戒律を絞り込んで効率化している。
キリスト教は外道であるとかつては公言されていたが、実際は内道であり、聖書では一念三千の明確な指南が数多くなされている。
日蓮正宗はカルトであると公言されているが、実際は東洋でもっとも正確で具体的な力を持つ宗派であり、御書では愛と神について仏に置き換えて詳説されている。
いずれも魂の喜びと充実を精霊あるいは仏性によって受け、他者へ慈愛を施してすべての宇宙にある生命と人間が一体となり、もって全人類救済を使命としている。
日蓮は末法万年尽未来際にいたるまで、キリストは世の終わりまで、人類の幸福実現のための信仰を呼びかける。
東西の違いはもちろんあるが、要は悪法を排除して適切な法制度へ移行できるぶんだけ、その地域国家は繁栄する。
いかに労を減らして富を確保するか、その知恵は最重要な戒律をいかに多くの民が意識できるかにかかっている。
健康意識の話に似ているが、人類が人類たりえるかどうか、人間が人間たりえるか、それは愛や慈悲をもって幸せに生きられるかどうか、教皇や法主が説くとおりである。
銃器や薬物や高度な技術で残虐なこと悲惨なことは、いつどこでも起こりえる時代であり、今こそ人間は完全なる神と仏をはっきりと意識して日々常々生活する方向性を持たねばならない。