専門家がそんな相関研究を詳しくしていて、個人的にとても納得している。
移民が宗教熱心でコミュニティを無視してやりたい放題するのは、世界中で同じである。
日本は排除ばかりして、受け入れる場合は言いなりになる人だけを許容する極端な特殊性がある。
しかし大半は移民に手を焼くのが世界共通。
唯我独尊、唯我イスラム尊で、何が難しいかといえば、ひとつには法や規則の存在意義を理解できないからである。
軋轢や衝突が起こるのは何が原因なのか、法と規則が天地ほど違うのか、研究のとおり教育レベルこそ違うのか?
答えは教育レベル。
キリスト教が大学を作ったのだから、そんなもの知らんというのは、日本にもイスラムにも多数いる。
彼らに共通しているのは、教育レベルで理解できない場合に法や規則について考えようとせずに、恨みや反発に突き進むことだ。
そういう意味では、日本人の大半も同じである。
日本国憲法なんて理解できないから、アメリカGHQを恨むしかない。
最も大切なところで、日本の大衆や移民が信用されないのは、そういうきちんとした理由がある。
排除と差別が悪いというのは、教育の機会を担保した上での指摘の正しさでしかない。
排除すべきだという表現が不適切なのであって、慎重に移民を受け入れる必要があり、ある程度予算を削減すれば法や規則に逆らう移民はどうしても浮き立つから、自然淘汰ややむを得ないこととして処理されるのである。
たとえばサッカーや音楽などで同じルールで競い合うとわかりやすいから、それもよいのだと思えば、先日もブリュッセルで射殺事件が起きて本末転倒である。
ルールとレスペクト、統治技術と心理のバランスを取りながら、愛をもって法や規則(ルール)が善いものだと体験してもらう必要はある。
まさにそこが教育の機会であるから、絶望と恨みと復讐心に沁み込み響かせるものが必要だ。
私は繰り返して言うが、一流のクラシック音楽と日蓮正宗大石寺の題目からヤル気を起こして何かの職業訓練を受けるのが最も合理的だと思う。
大切なのは、忍耐をいくらかスパイスに深く広く楽しむ法、知慧を知ることだ。
人によっては世界的絵画を鑑賞したり、文学作品に親しむことだったりするだろうが、いずれにせよ教育の機会とは、学歴だけではないが学歴と相関している。
宗教キチガイは学校なんてとバカにしているから、そのありがたさとか幸福感とかなんてわからない。共産主義者は学校さえ行けばと真逆の傾向だが、やはり高学歴のほうが幸福で優秀でしかも宗教への出席率も高い。
結局、無教育で宗教熱心な人が1番危険だということか?
そんなありふれた常識が言いたいわけではない。
移民への義務教育さえできれば、移民は問題にならない。
義務教育をキリスト教規範で宗教儀式だけ別とすれば、イスラム教だろうが仏教だろうが、法と規則を理解するしかないし、そのほうがよいだけだ。
そのための予算や人員でカバー出来る人数を難民受け入れすればよい。
容量オーバーは別の国へ依頼するしかない。
国連が国際環境税や国際健康税や国際児童税などを各国の経済力から徴収できればよいが。。。
国連を予算から足腰強化する必要がある。
自国の都合だけの国のなんと多いことか?
難民の定義はやや広くて教育レベルが低い場合同じ規準で救うべきなのか?考えてしまう時もある。
それぞれの宗教文化を尊重するだけであれば、難民には全員死んでもらうのが尊重である。
未開の宗教や宗教熱心が原因なら指導しなければならない。
従わないで、神よと自爆されてはかなわない。
その場合は宗教が理由なのではなくて、教育を受けるつもりがなく、移民が統合されるための努力を拒否しているわけだから、日本の「郷に入っては郷に従え」そのものである。
未開の郷で郷に従ったら死んでいた人達としては、郷と別に生きたいし、郷に反発するコミュニティに安心する傾向が強いはずで、そのあたりは面接試験で教育機会を振り分ける必要がある。
日本にも移民が押し寄せるが、経済力上位国はどこも同じ引き受け国際協調義務がある。人気不人気はあろうが、国連の専門機関の協議決定勧告は最大限尊重して地球上が繁栄するように願う。
アラブを煽てあげる中国のやり方は、人類の教育的貧困を推奨し、世界中で暴力とテロと軍事衝突をもたらすだろうし、それを助長するのは日本や近年の欧米諸国に目立つ移民外国人排斥運動である。
煽て煽りのツボが正義への怨嗟だからこれほど確実なことはない。
ガザ占領とかパレスチナ虐殺とかいう難民の主たる供給源を支援するアメリカの問題は重大であり、難民高等弁務官事務所がアメリカにないのも頷ける。
米中は思想信仰の対象としては偏頗すぎることを我々は明らかに識るべきだ。
イニシアチブは大国や軍事経済によらず、人間の心からの知慧と行動によるべきであり、そのための国際機関であろうとするのもまたその心がそうさせるのである。
人を苦しめて平然とする人生では、いかなる栄耀栄華も虚しく万歳を悔ゆるものとなろう。