どんな国にも犯罪や人権問題はあって、そもそも先進国でも行政部門にはしばしば問題が起きていることが知られている。
まるで悪い冗談のような公務員の間違いはしかし予算的制約を正当的な理由とすればなんでもありにできるという愚行が繰り返され、完全には修正されないままである。
もちろん、修正機能はどこの国にも多少なりあるのだが、モザイク模様のようにその程度はまちまちでとても信頼できるようなものとは言えない。
ましてや冤罪、虐待、不当裁決、強制強要、理由のない隔離、司法差別、国による虐殺委託、医療虐待、その他の深刻な案件については、その専門家が主な対応者であって、一般の市民はほとんど無関心で無関係だという感覚がほとんどだから、そもそもそれらの事実の認定が専門家と本人の証言によるしかない。
マスコミは取り上げやすいものだけを扱い、全体像や具体的なところが客観的には見えづらい。
それらを他国や国際機関の担当者に説明する場合、また会話の中で説明する場合、ペンフレンドに伝えたい場合、かなり苦労することになる。
いわゆる非日常的な悲劇や残虐さに慣れることは誰にとっても難しい。
被害者・当事者の問題として他人事として処理して安心しているのがたいていの人間だからである。
他方、他人事というのは客観的に専門家の分析を見やすいという面がある。
説明の仕方を心得ることができれば、万国共通の問題意識のもとで事象事例を共有して解決のために協力関係を構築することすら模索できる余地がある。
もちろん国際関係、政治関係、学術交流関係、それぞれの関係性の中でなされる模索がいつもうまくいくとは限らない。
しかし、その余地があることは確かである。
説明が難しいのは、そういう意識のもとで難しいのであって、裏を返せば問題意識を共有しつつ理解につとめることで、説明が比較的容易になりうるものなのだ。
人類の共通問題意識という土壌をよく知ることから、問題が問題であると理解できるし、説明も可能なのだ。
原爆の被害は日本人だけであるが、加害者は米国なのか連合国なのか開戦した日本政府なのか、問題意識があれば、被害を説明しやすく理解しやすいし、その問題意識がなければ理解も説明も起こらない。
たとえばアジア人を犠牲にすることに問題がないとかアジア人差別は当然だという認識からは説明や理解は不可能ということになる。
現代においてもその構図は不変で、まず問題意識を持つ、促す、解決策を模索していく流れがとても重要ではないかと思う。
どこの国にでも問題があるからどうでもよいのではなく、黒人差別、アラブ人差別があるからアジア人差別に問題がないわけではない。
どこにでもある問題や差別にひとつひとつ取り組むことが人間の責務であり、責務の放棄こそが恥なのである。