もう平和学習は卒業したようなつもりになりがちな成人だ。
でも、記事を書こうと思い立った。
今、ウクライナとガザが戦火に包まれている。
原爆はわずか七八年前のことでしかなかった。
人類史から言えば、ついこの間のことだ。
今後危機はさらに深まるだろう。
そもそも戦争がなければ、殺人や重大犯罪がなければよいと願うのは当然。
そしてどうしても根絶できないのが、人間の負の側面だ。
では、なぜ戦争や重大犯罪が起きるのか。
それは時間の経過で自国や自分や自分の周囲が追い詰められていくことが明らかな時に、軍事行動や犯罪行為に走るのが正当防衛と同一の行為と感じられるからである。
その場合、公正に均衡した関係性がすでに崩れていることが悲劇の原因である。
その状況をいち早く調査し認識し、対策を講ずることが肝要である。
ただ戦争や犯罪が悪いと主張しても、効果はないのである。
戦争や犯罪の悲惨さをアピールし認識を共有することは重要な教育上と議論の前提の第一歩である。
そのうえで、戦争や犯罪が起きそうな状況を察知して防止するための専門的な学識や研究機関と対応機関が必要になる。
平和学という学問、国際人権機関、国連機関などを総動員して予防しようとするが、それでもうまくいかない。
たとえばイスラエルはもともとの故郷だからパレスチナ入植は正当だと言う。
アラブ人は現在居住しているから居住権があると言う。
どちらにも一理あり、どちらにも権利はあるのである。
軍事行動や法的強制執行が歴史の中で繰り返されてきているから、一概にどちらが絶対に正しいとまでは言えないのである。
したがって、軍事衝突や民間人の犠牲を生まないための交渉こそが最優先である。
テロも空爆も好ましくないから、交渉しかないはずだ。
もうひとつの面は、少数派はどちらなのかという面だ。
日本(日本人)やイスラエル(ユダヤ人)は世界的には圧倒的な少数派である。
彼らをホロコーストしてもよいと考えるのは、かなり危険な考え方である。
アラブ人対ユダヤ人で考えるとユダヤ人は一瞬で消滅しかねないから公正さを担保する必要がある。
中国人と日本人でも同じであって、対等な尊厳ある人間同士として交渉するためには、何らかの支援や仲裁が必要になるのだ。
それは軍事力バランスと法的な正しさにもう一つの要素を考慮する必要性である。
そういう要素をトータルで勘案して、何を基準にして人類のひとりひとりである個人は何をいかに支援するべきなのだろうか。
仏教徒だから戦争しないかと言えば、実際は多くの仏教僧侶と仏教徒は戦闘に参加した。
キリスト教だから愛で殺人をしないかと言えば、もちろんそれはない。
イスラム教徒は宗教指導者に扇動されて戦闘もテロもなんでもやる。
宗教は歯止めになっていない。
ほとんどの場合において、心の安らぎを得るために殺人や戦争をやる。
つまり理性と愛の高度な一致による言動だけが戦争を抑止する力となる。
人間関係、法的関係、経済軍事力均衡を適正化することしかない。
その視点から、中国軍の暴走、テロ、商船攻撃、ガザ空爆、ウクライナ戦争などをもういちど考え直してみると平和に貢献できるのだ。
子どもなら犯罪や戦争は悪いという次元しかわからないというわけではない。
兄弟や学友との関係性の中に、すでに平和教育の機会がある。
夏休みなら従妹やハトコや習い事の友人などの関係性で揉まれて元気にやっていけるように挑戦することも大切な経験だろう。
内気で引っ込み思案、すぐに暴言を吐く、大人に引っ付いて回る、様々なタイプの性格の子供なりに、学ぶ機会は常にある。
しかしまず夫婦喧嘩の悲惨さ、離婚問題の苦しさを子供に味わわせない知恵から考えるならば、常日頃から大人も平和学習に学ぶ必要はある。
核兵器廃絶は全世界で一度にやらなければできない。
政治的指導者や国連大使や国際機関代表者レベルで賢明な議論を成熟させる必要がある。
とにかく大人がまず平和学習をしなければならない。