FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

ドラレコでも捜査拒否

何気に当て逃げ車両がドラレコに映っていても、相手のナンバーが不鮮明なら警察は捜査しないことがほとんどだそう。

そこで知恵としてある記事では、ドラレコにナンバーを読み上げて記録とすれば捜査してもらえると書いてあった。

なるほどそれは知恵。

しかし待てよ。

かつて自転車の盗難を目の前で目撃して、車種とナンバーをメモして通報したことがある。

それも即座の通報だし、その時の警察官は「それは盗難車両かナンバープレートを付け換えている可能性があるから捜査しない」というもので、唖然としたのは警察が明らかに盗難を擁護していることだった。

ドラレコで不鮮明だって近隣の防犯カメラに映っているだろうし、捜査のしようはいくらでも考えられる。

世界中で警察官の判断に市民が困惑し、被害をスルーされ、犯罪者がほくそ笑んでいる。

都心の立て看板に目撃者を求めるものが、常時いくらでもあるから、歩行者や自転車もたくさん被害にあっている。

警察官としては、重大性がないとか軽微な被害とか、はたまた面倒臭いとか、経験と知識でサボるほうが得だとなっている。

日本が無法地帯になり、旅行客や専門技術をもった就労者も、子育ても危険である。

そういう心配はまたすべて精神・知的障がい者が悪いと矛先を向ける警察官が多い。

警察官の資質をきちんと育成する必要があるところ、国会議員や政府が面倒臭いものは拉致して殺せと法令をかえようとしている。

そもそもの法令を間違えるのは、市民生活のための憲法解釈がエリートに欠けているからである。

犯罪はばれなければよい。

被害者は泣き寝入りすればよい。

障がい者は飼殺しに殺せば解決。

それらは同じ違憲状態を誤魔化すための政治技術だという日本の国会と政府のスタンダードなのである。

被害者に心のケアを仕向けるのも、闇に葬り薬漬けにして解決にできるからこそ。

被害を申告できないように、黙らせるために、行政慣行と仕組みがなっているところを人権問題と自覚できないあたりが、日本人の病理である。

自己責任という政治的原理主義は、官僚議員の確信犯罪であり、同時に傍観宗教家の幇助教唆愉快犯罪であり、反社会的勢力温存を人権擁護という狂気でもある。

途上国や専制国の社会規範と一致する。