FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

ある日突然被害にあうというのは違う

昔から通り魔だの辻斬りだの物騒な事件はある。
不遇の人だの狂気の人だの、見知らぬ人や無関係な関係性だから被害にあうのは突然で許しがたい。
親族や近隣の場合は勘違いされている場合もあり、それはそれで被害にあいやすい。
同じ地域、同じ国、同じ民族言語文化でも、親族でも知らない人がたくさん。
事情をうかがい知ることも完全な理解ではない。
やはり知らないとしか言いようがない。
しかし個人的に知らないだけだ。
社会的には知らぬ存ぜぬでは通用しないのだ。
不幸な人を知らないという場合、その人を知らないのではなくて、その人の不幸に対して手をさしのべないという意味合いが発生する。
その恨みを常に生じる態度が他人の不幸に対する無関心不寛容である。
であるならば、時に起こる凶悪な犯罪に対して激昂して死刑を求めるとしても、その被害に対して、加害者もまた知らないという相互の共通した無関心不寛容が成立する。
被害にあってはじめて、毎日辛い思いをする経験をしても、それは加害者はそれ以前から毎日辛いわけである。
被害者側は加害者の辛さなど知らないと明確に態度にあらわして無関係だと言う。
立場が時系列で逆転しただけだ。
常日頃から他人の不幸に対して社会的に支援する心と協力行為を意識してやるべきだ。
被害側になってはじめて相談支援事業を知ったとか、他に相談できる人がいなかったとか、そういう信心では、誰しもいつ被害にあうかわからない。
社会のせいだという犯人の言い訳とは別に、地域住民の態度が惹き起こす事件が世界中にあり、政治的社会的な支援体制の不備が惹き起こす事件がある。
誰かを追い詰めて、かなりの数の不幸を放置して、それを政治家や行政ぐるみで増幅させておいて、ある日突然被害にあったというのは、ものの道理がわからない赤子の夜泣きと同じである。
被害は気の毒だが、常日頃からの信心と行動が最善の被害予防・犯罪抑止になることを深く銘記しなければならない。
邪な宗教の影響で人の不幸に関わらないことが突発的事件のほとんどの原因である。