FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

仏教はほんとうに平和的か?

f:id:FujiYama:20220118232355j:plainむかしむかし、1983年ごろ小学校の教室に漫画の「はだしのゲン」という原爆の悲惨さを描いた作品があり、全巻読んだことがあった。
そのなかに、とても印象的な僧侶にまつわる逸話、体験談があり、少年だった私の脳裏に焼き付いた。
それはむしろ戦争や原爆の悲惨さよりもエゲツナイと思った。
どこの宗派の話かは明らかにされていない。
おそらくどこもたいして変わらない。
戦後、都市部に浮浪少年や傷病者が溢れかえり、飢えた人間がわんさかいた。そのころの悲惨さは、今もまだまだ多く語り継がれて、漫画ではない現実事実だとよくわかる。
その広島市内で浮浪少年に、優しい微笑みを浮かべて裕福な袈裟の僧侶が道端でおむすびを与える。
少年は空腹でおむすびに飛び付いて腹を満たす。
その僧侶は、毎日おむすびをあげるからついておいでと少年を船に載せて島にある寺へ連れていく。
その島からは容易に出られず、少年農奴として酷使するという話である。
少年はあまりの労働の過酷さに命からがら島を脱出するのだが、逃げる能力がない少年たちはそのまま奴隷になる。
僧侶は可哀想な少年を助けていると言う。
人の不幸につけこんで、闇稼業のスカウトであるものを、なんとまあ善行だというのだから呆れ返る。
そして仏教のいずれの宗派も、その理屈でボロい商売を当然の仏道であると口を揃える。
平和というのは、はたして何か?仏教とはなにか?
お布施にかなり高額なものを期待する僧侶たちは、仏道をしているのか、商売をしているのか?
一度上げた生活レベルを下げるのはとても難しい。
江戸時代に中級公務員待遇を受けた僧侶が、妻帯したので、ますますカネが一番になった。
戦争や原爆によってボロ儲けするのは、軍関係だけではない。
人の不幸が増えると、儲かって仕方がない。
戦争も原水爆も災害も大歓迎な職業がかなりある。
質素な生活ができるかどうかが信心の絶対条件であり、妻帯している僧侶たちには、絶対に不可能である。
正しい教えよりもお布施の金額、信徒の真心より供養の額面こそが判断基準になり、一銭のためなら浮浪者でも使おうという感覚である。
アジアの賃金が安いのは、基準が奴隷酷使の仏教文化に裏打ちされた拝金主義によるのではないか?
人が余るようにすれば収益をあげやすい。
アジア人の幸福をかすめとる僧侶が、最近不人気なのだが、因果応報である。
人の不幸につけ込む本質的性質がそれほど劇的に改善されることはないだろう。
戸田城聖は、お布施を欲しがる坊主は乞食坊主だと言った。日蓮は猫がネズミを、猟師が獲物を狙うようだと譬喩した。
せっかく日蓮が日興に伝えた悟りを大石寺に保存する奇跡があって、正しい信心をすれば、お金で間違えることはありえない。
浮浪少年は当然に、義務教育や職業訓練につけてあげるべきであり、余暇に農作業を手伝わせるという主客をきちんとできる仏教なら問題ないが、立場や足下を見て贅沢は許さないぞという虐待や人権侵害が日常的なアジアの仏教がいつまでどの程度残るのか?
大きな流れとして、仏教僧侶の信心指導や運営の改善は微塵もない。
カネがすべての仏教界だという正しい認識をする人がほとんどになり、正しい信心とは貧乏人や病人を見棄て虐待虐殺しても見殺しにすることだという、釈迦も日蓮もない、神も仏もないと嘲笑している神主や寺族たちは、私利私欲に文化財を利用するだけの極悪非道な人種なのかもしれない。
宗教ばなれや仏教ばなれの原因は、職業宗教家の言説、言動にあり、その信心の間違いからである。
日蓮も釈迦も説かなかった珍説法や恐喝指南が横行すれば、それもまた仕方がない道理である。
奴隷商人や闇商法に明るくても、誰も幸福にはならない。世間がわかっていることと真実悟りは異次元だし、強制強要と慈悲はまったく別物である。
人間や信心というのは、困った人にどうするかでわかるし、不幸な人たちの力にならない人間や信心には価値がない。
戦争と暴力が絶えない。
理屈や仏教用語、法門の正しさは、悪用すれば、かえって人を不幸にする。純然たる過失はすぐに修正がきくが、信心の間違いを認める職業宗教家はどこにも誰1人見たことがない。
現代人が真実悟り幸福になるのは、ほぼ不可能となっているから、まず私は宗教を全否定してから宗教を眺めるようにした。
殺人事件発生率か戦争発生か、自分の心の変化か、その平和的な改善が具体的にあるかどうかが最重要だと思う。