よく自分がお金を稼いではいけないのか?収入を求めて努力してなにが悪いのか?というご意見を見かける。
経済はいつも適正なものばかりではなく、非公正な取引や詐欺ギリギリのものも多く、はたしてなにが公正適正なのか判然としない市民が多い。自由主義とはボッタクリの自由であり、搾取の自由であり、貧困強要の自由でもあり、その結果として社会経済が繁栄している。
昔の植民地政策は一時期世界の常識で、侵略こそ正義だったし、侵略は権利行為だった。
軍事武力で罪のない人を奴隷として取引して繁栄したが、なぜか経済力による又は法的拘束力による奴隷労働や詐欺搾取はいまだに正義。
弁護士資格は反社会的組織のご意見番であり、維新の橋下徹さんが性風俗業界とお仕事をしていたことが知られている。
経済力か武力かという違いはあるが、力の論理に違いはない。
平和などというものは、もともと、そもそも個人の犠牲と断末魔の悲鳴を無視して成立している虚偽の平和であり、繁栄の意味は大部分に対する生き地獄の法的強要にある。
世界の富裕層がもっと税負担をしてもよいというノーマルな心になっている反面、ガツガツと売上、収益、配当、所得というだけの未開の支配層と一般労働者たちは、その自らの無惨な心に振り回され、戦争が始まると反対する愚かな生き物たちである。
平和の暴力性をまず修正するための政治、社会、宗教的な努力をしてから、戦争の抑止はなされる。
収入を求めることは、政治家に戦争を促すことであり、経済成長路線もまた同義なのである。
今の日本なら1人当たり年収300万円以上はおよそ必要だが、逆に言えば1人当たり600万円以上の年収を求めることは、誰かを地獄谷へやっても平然としているプーチンの正義となんら変わりない残虐さを持っている。
現金だけでは量れない平和だとわたしは昔は思っていた。暴力が悪いし、戦争が悪いのだと思っていた。
力の使い方、行為主体の心がノーマルなら戦争にならないと思っていた。
しかし、むしろ平和の心の中に、すでに犬死を他人に当たり前に求める戦争の心がある。
宗教の間違い、政治の間違い、経済の間違いは、われわれがそれを無制限に自由にしているからこそ発生する。
平和のうちに、きちんと手を打つことだ。
わたしは微力ながら、人類と日本人の平和の維持のために、ご意見させていただき、記事を書く。
弱者を作らず弱者に手厚く強者はおごらず。
人類はまだまだ勉強が足りない生物である。