FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

日本の常識がなぜひどいのか 歴史の転換点 日蓮の弟子たちの勘違いから

f:id:FujiYama:20211029212010j:plainまずお金から出発して考えると間違いなく、日本だけ硬貨やお札が少ないというのが、日本の特徴だということを知っておかなければならない。

自分の財布や通帳にあんまりないと、これからしたいことはあまりできない。

それほど使えないというウツモードに突入する。ことわざでは貧すれば鈍する。

それが家庭の事情なら半分は仕方ないと思うが、ポイントは政治と宗教の問題から、自分の財布や通帳にあまりないという因果関係の存在である。

宗教や道徳で清廉潔白という言葉や質素倹約とか、戦時中には欲しがりません勝つまではという政府のスローガンがあった。

政府や政治は、かつて一億総中流というみんな平等に尊重しあう時代を築いた。

しかしそれがほんの一時的な、数十年単位の一過性の政策に終わった。

鎖国状態にして、外交活動を独占して一部の特権階級だけが海外旅行を楽しむ制度に変更した。

もともと日本人は倹約家が多い。

納豆と卵があれば贅沢だという感覚である。ごはんとみそ汁だけで健康そのものだからそのほかは贅沢なのである。

着るものも綿の無地に近いような地味な着物だけで足りる。

住むに女中部屋とかタコ部屋とか常軌を逸した狭い暗がりに寝起きさせ、ひと昔まえの製糸工場の寮の悲惨さは結核が流行するほどである。

自民公明政権になってから、いやそれ以前の大平内閣の時から、日本政府は緊縮財政に急ハンドルを切った。それ以来株主のための政府と政治になった。

この国の設計図がそうだから、みんなの給料は上がらない。

 

最近、ニュースで飲食店のスタッフがコロナで苦しいとツイットしたらみんなが苦しいのだからと攻撃されたと嘆いていた。

スタッフはみんなで助け合うべき時になんとひどいことを言うのかと傷ついたという。

西欧化は戦後急激に訪れたわけではなく、明治維新から積極的に採用してきているが、国民生活にゆとりをもたせることと、危急存亡の際には公的支援をすることが、劇的に明確にされたのが、日本国憲法以降である。

戦後75年を超えて憲法がかなり定着しているから、まったくひどいことを言うなと私も思う。

しかし75年以上前は、餓死者が出たり人肉食者が出たり自爆攻撃が政府主導で行われていた。

そしてそれを基準にしたままの宗教と政治が日本には残っているから、ひどいことを言う人たちは、それを常識だと言って改憲が必要だと主張している。

宗教や政治というのが、まじめに働くことを第一にするのは、現代では日本だけのことであり、世界中で家庭の幸福と個人の自己実現を第一にしていることと対称的だ。

たとえば欧州で音楽家世帯主死去による寡婦に対して組織的に遺族年金を作ったら、その後その年金制度は拡大していく以外にはなかった。健康で文化的な最低限度の生活というのが、向上していくことを前提にしているから、最初は業界別に保障していたものが全国民対象になる。

しかし日本では、働くことが第一なのだから、保障を縮小させる発想。

年金が減額される法律ができたが、欧米ではありえない。

なぜ憲法に勤労の義務を明記したのかという疑問があるが、まさにアメリカ人の都合ではないかと言わざるを得ない。そんな憲法ありえない。

働くことは人間の権利であるものを義務だというのは、黒人奴隷の代わりに黄色人種の奴隷を制定することが目的だったのであろう。

旧来の日本の伝統にも、士農工商という農奴制度があったから、日本政府にとってかなりおいしい話、うまい話として義務化できるという都合と合致した。

日本の仏教では、もっともまじめな仏教徒は中卒で働けばよいし、給料を返上したり、休日を返上したり、家族そっちのけで、寝る間を惜しんで働くとよい、という不文律が存在している。そういう滅茶苦茶なまじめな基準をそもそも日蓮正宗においても推奨している。月収7~8万円の人から1万円とか時には5万円の布施をさせるなんてありきたりの常識なので、仏教というのは、かなりえげつない宗教である。

まじめという日本のゆがみが宗教にあり、それを政治が擁護して推奨するという形が日蓮がなくなってしばらくしてから、日本社会に蔓延しだした。

武田邦彦という学者が昔の日本について幻想を語るかのように、みんな人間として尊重されていた高度成長期の話をしていたが、実は中世ごろまではそうだった。

日本人が日本人同士で慮って、皇室が民の生活を心配していた。

日蓮鎌倉時代に出現して、まるでゴジラのような表現だが、その手紙には彼がいかに厳しい環境で生活したかということと、信徒が寝る間を惜しんで命を顧みず日蓮のため日用品や金品を貢ぐことがたくさん書かれている。要は人もカネもモノも貢ぐことが素晴らしいというところが、ほかの宗教ではそれまでなかった。

富豪が武家や公家に金や財宝を献上することはあっても、一般の庶民や公務員クラスがそんなに命がけで生活を切り詰めてモノカネ人を献上することはなかった。

ここから約800年間、日本のすべての歯車が狂っていることは明らかである。

ここ30年ほど、消費税を導入して引き上げて、食料品の価格を引き上げて、耐久消費財を中国で生産して高値で販売し、株主優待だけを優先し、生活保護最低賃金を実質的に大幅に引き下げ、労働時間の制限を撤廃し、食事代を切り詰めさせ、まともな衣類が買えないように中国製のユニクロ製品を蔓延させ、ネットカフェ生活や路上生活も選択肢にし、1年契約の学校教員を常識にし、窮乏生活を時代のスタンダードだという国造りが完成している。

憲法のおかげで、せっかく誰もが健康に働けるようになってきた文化が根付いた世代が増えたのだが、それは宗教と政治で許しがたいということである。

民意はまちがいなく豊かな生活を志向する。

政治と宗教は、なにがあろうと困窮生活を強いようとする。

敗戦の反省はもうどこかへ行ってしまっている。

また一億人が身の危険を感じるレベルの国になっている。

仏教の教えは、日蓮正宗の教義が間違いなく正確であるが、その教義をどこでどう間違えるのか、信徒の心得に無駄遣いをなくして金銭を提供するように文章で明記されている。

そこから進学や留学などの教育文化が贅沢扱いになる。

問題は仏教の最高峰だという説得力がほかの仏教すべてに及ぶことである。

日本社会は仏教によって統合されてきているから、どの宗派でもそういう節約してお寺に上納金をするのが常識になってきた。

給料が20万円でも50万円でも8万円で生活して、残りは差し出せという教えになるとたいていの家庭は子育てと進学がおろそかになる。虐待があたりまえになる。

富豪でなければまともな仕事、職業訓練は受けられない。

 

現代の常識では、職能を重視した成育による幸福追求の道がある。

もう宗教と関わる必要はほとんどないわけで、誰も死後の世界なんて信じない。

奨学金制度が未整備状態だが、健康な人は留学してしまえば、その留学先で奨学金を支給されることがある。

日本の宗教と政治は変わらない。生命を尊重すると主張しているれいわも共産もほぼ国防を無視している。(過日耳を疑ったが共産党が安保を重視するらしい)

必要な最低限の給料はだれも支払わない。

どれだけ頑張っても、いかに真面目に生きても、ただ借金苦とか生活苦とかしかない。

納豆や卵は贅沢品だというのが日本の常識なのである。伝統的富裕層でもそれは同じだ。

そこをよく考えて、職能の狙いを定めて20代までに実務能力をつけて幸福の土台を作ることがとても重要になる。

いくつもの宗教規範なるものを勉強して、まあなんとひどいのだろうかと思って、今の若者たちが気の毒になったから、こういう記事を書いてみた。

途上国よろしく武器のない子供相手にぶんなぐってこき使うだけの日本の年輩をあまり敬う必要はないだろう。あがりはみんな富裕層だけがもっていくシステムである。

護憲という言葉があるが、むしろ護民のために憲法を大切にしてほしい。

自分を護ることが一番であり、憲法が法律の一番であり、これを間違えるとさらに自爆の強要はエスカレートする。

みなさんに自爆を強要し続けているのは、まちがいなく日蓮正宗のまじめな人たちである。(創価学会顕正会も例外ではない)

魂の収支と自己責任を政治に転用する人たちには、まっとうな人間の扱いができない。

自腹を切れとか特攻機に乗れとか自己責任とか。

努力とかまじめとか。

日蓮の教えとは真逆、正反対になっていることも敢えて書いておきたい。

日蓮正宗(ほか仏教各派)のまじめな人たちに言わせると、キリストの愛はなにがあろうと不正である。医療は利権であり介護は不要だから不調がある国民はみんな虐殺したってかまわないくらいの感覚である。コロナで困窮者の支援なんかきちんとするわけがない。

奴隷兵士養成システムとしての法華講がその呪縛に自ら気が付くようになることを願いつつ、特異な日本社会のゆがみの根本原因、起点になっているものを発見したので、よくよく注意して意識的に考えるように日本人に知らせたい。

人類からみて日本人なんていくら大量死しても痛くも痒くもない。

日本人が気が付いて日本人が変えていかなければならない。

馬鹿な日本人はえさに食いつくから、長期的な改善をまったく見ていない。

根本がわからないからいつまでも目の前のえさに食いつくだけしかできない。

お金が浮いたときになにをするか、どこに使うかを見れば、その人の本性がよくわかる。

大石寺の大御本尊を拝んで功徳を感じたとき、つまりパワーアップした時、信徒を育成するよりもまず先に貧困層を追い払って生活を追い詰めていくひとたちを見れば、法華講の本性がよくわかる。きちんとした弟子ならば貧困層に施しながら修行をさせる育成の基本形を外さないから、法華講の規則等に公益事業としての規定を定めて明示しているはずなのだが、そういう具体的で公正な規則は見渡しても存在しておらず、悪平等な一律負担金だけは心得と称して明文規定し、さらに貧困層に対する締め付けを強化しつづけている現状は残虐非道な絶対君主制の側面の残遺文化として糾弾されるべきところである。

現代の常識にはそぐわず、約30年前に一挙に1600万人が日蓮正宗から離脱し、さらに離脱する僧侶もいたりするが、経済的には所得分配率からくる負担割合の傾斜がきついので、富裕層中間層にしかまともに修行できない制度になっていることがわかる。どうやらガチの極道システムとあまり変わらないので、広く一般大衆ができないようになっており、広宣流布という言葉はあるが、弱肉強食と虐殺の伝統的日本文化を公然と吹聴してしらふの現代人からドン引きされているに過ぎない。

幸福を基準にすればノーマルな宗教や政治になるが、不幸を基準にしていることが日本人の不幸を決定付けている。

何を言ってもみんな死ぬんだからみんな同じだと答える人たちには、政治は向いていない。死神に政治をやらせるとまた犬死の国民が増える。

みんな生きて幸福になろうとする前提で政治(予算)を組み立てる人たちにこそ、政治家の資質、官僚の資質があるのであるが、そういうノーマルな人が日本人にはまずいないのである。

あ、そうそう。

近世以降で、そのノーマルなお方が日蓮大聖人様と直弟子の日興上人でいらした。

市中にちらほらその心を言動としてとれる人もまったくいないこともない。

しかし内閣総理大臣衆院議長に対して諌暁できるほどの大物はもういない。

ふざけたような山本太郎の人望ではまだまだ笑い話にされている。

日本人が頑張って手に入れたあらゆるモノもカネも腕もなにもかも安く叩かれる政治と宗教の時代に疑義を持って先進国として恥ずかしくない国に変えていくべきだ。

日本人が幸福になることが一番だから。

和声には次の和声の適切な選択肢が決まっている。和のわからない私利私欲のエリートたちが日本人をニワトリのように絞め殺している。