浅識をさらすのは、とても恐れ多いことだが、昨年暮れにお亡くなりになったイヴリー・ギトリスさんのインタビューに、本当の音楽やバイオリンあるいはヴィルトゥオーゾとは何かという探究者への答えがあるような気がしたので、引用させていただく。
YouTubeで2016年3月25日に公開された訳そのままで。
Q毎年日本へ来て頂いて感じることはありますか?
A感じることと言えば・・・戻ってくる「家」だな。
いつ来てもやはり・・・「家」に帰ってきたなあと感じるよ。
本当に「家」のように感じるし、場所も沢山いる人もとても好きだと思うし、なんとういうか本当に・・・「家」のようだね。
Qあなたのそのエネルギーはどこからくるのですか?
Aそんなことは分からんよ。天にいる神に聞いてくれ。
わたしもなぜこんなに元気なのかわからないんだよ。
Q常に解放されている状態でギトリスさんが演奏しているように感じる聴衆が多いと思います。
A解放とはどういう意味だか見当がつかないけど、私からは解放されているというより、「”現在”個人である」ということを伝えるよ。
もしくは「過去個人だった」や、「未来に個人となる」があるね。私自身の中で共に”私”となることができるんだよ。
すべての人が自身ですべての世界を創造し、各々の偉大な歴史が今日の私たちであるというのは素敵なことだね。
それが自分にとって良くない時もね。
Q若い演奏家の演奏について最近感じたことはありますか?
A今、とても才能のある若者がたくさんいる。
ただ、かつてと比べて若い奏者に対して求められるものが変質していて、残念ながら、演奏にとにかく完璧さを求められるんだ。
私は間違っていると言いたい。
機械のような完璧さを要求されている。
でも、わかるかい、・・・・・演奏とは人間性、それはフィーリングとも言えるけど、フィーリングはそうだな、愛のようなものだと思う。
愛は幸せをもたらすだけではない。
演奏も幸せだけをもたらすのではない。
音楽は幸せにさせるだけではなく、深い気持ちや寂しい気持ちにさせて、時には涙を流させるようなことさえある。
それがいいんじゃない。
それに、愛の物語というのは時にはあまりにつらかったりするけどエンディングまで行って振り返ってみれば、笑って終われることもある。
途中、「どうして、ひどい」と恋の痛みに嘆くけど、最後にはハッピーになるじゃない。
要は、演奏の本質とはそういうことなんだよ。
Q日本の皆さんへメッセージをお願いします。
A全ての日本人のファンと友人たちへ、私は君たちをとても愛しているよ。
私のことを愛して欲しいとは頼まないけれど、もし私があなたにとって良くない人物になってしまったとしても、私の心は・・・あなたと共にいるからね。
(満面のほほえみで投げキッス)
最後のヴィルトゥオーゾとして最近まで活躍していたが、残念ながら演奏を直に聴く機会には恵まれなかった。
興味はあったので、動画配信で演奏を視聴したり、インタビューを視聴したりして、その感性に触れることが、とてもいつも参考になった。
同門の先輩や後輩はギトリスに直接薫陶を受ける機会を得られてとても幸運だったが、彼らの演奏を通してギトリスの教えを間接的に学ぶことにはとても愉しみを覚える。教育者としても活躍していたようだが、この人の教えは音楽を通した神や真理に近い哲学がとても面白かった。
今の時代のコンクールでは予選落ちだと断言する人が多い彼の魅力は、日本的に言う解放された演奏だが、その感性がとても魅力的で、伝わってくる感性を的確に同じように表現できる人がいないことがなんだか時代の終焉みたいでとても寂しい。日本的表現で魂の開放、解放された魂だが、なんと呼ぼうがその感性は確かに存在したし、広い宇宙でいつでもどこでも生じうる感性であり、魂だから、変に落ち込まないでよいと思うが。
内面の投影としての世界観を認め、歴史や社会が自分にとってよくないことがあることを認めながら、演奏上の感性が紆余曲折から幸福に向かうものであると教える。魂は幸福へ向かう性質を持っているから、社会がどうであれ、名作を演奏して共有できる機会を楽しむことがこの演奏家のありきたりな主眼なように思える。
誰もが心は変化しつづけているが、フレーズや楽章によって自在に人の心を動かして満たす愛の感覚を説いている。
私は願い叶わずヴィルトゥオーゾになるための教育を受けることができなかったが、魂の開放の実体験ができることを知って幸福を感じるようになった。
ギトリスは比喩で言っているが、千変万化の心の姿を音楽は実に如実に教えてくれるものの、音楽の弱点は偏りにある。プログラムがうまいと満足感や幸福感はすばらしいが、際限なく曲を学び続けなければならない富士の樹海のようなさまよえる人生に陥ることが多い。
ギトリスの演奏はとても繊細で柔らかい表現を得意としている。
あのふわふわ感がみんな欲しいのではないかと思うが、バイオリン教室や音大ではそんなものドルチェやピアニッシモですら許されない。
そしてただ強くあれと教えられる。
強くあれというのは、現代の演奏家の演奏を聴いていると、技術的に完璧で商品として瑕疵のないものだけを追求しろという意味と、エッジのクリアな実線のような音表現を主として認めるという意味があるようだ。空気で表現できるストラド以外は勘違いすんなよという威圧のようなものも感じる。
ギトリスの言うことも、私が感じる違和感も、みんなが求めているふわふわ感も正しいと言わざるを得ない。
私が最初にレッスンを受けた教室は、どちらかと言えば自由奔放な空気の中で、リラックスした感覚で誰もミスしない教室だった。今はみなさんがミスの連続の教室になってしまったが、魂の安穏とノーミスというのは一致する。
東京で音大生の演奏を聴いてみて、とてつもない緊迫した凍り付くような心の硬直を感じた。デジタルメトロノームで寸分たがわないリズムで音を出さなければならない空気感にドン引きしたことを憶えている。
とても窮屈で身動きがとれない満員電車で一ミリ動くのに苦労するような演奏で、いうなれば音楽を感じない音大やプロという印象だった。
昔は音大に行きたかったのだが、今の音大に行きたいとは思わない。
日本のクラシック界がひどい兵隊養成所になっていることは30年前の昔から知っていたが、ここまでひどいとは思わなかった。
クラシックから離れた葉加瀬のような人のほうが親しまれるのも当然かもしれない。
魂の開放の方法が日蓮正宗の修行だと何度も記事を書いてきたが、だれも興味がないらしいので、次世代のギトリスは出ない。
世界的評価のある先輩や後輩にはうまい演奏家はいるし、完璧な世界ツアーのソリストもいるけれど、みなさん愛が小さい。愛がないわけではないのだが、素っ気もなくどこか小さい。
大きな愛と個性の開花を指して魂の開放というならば、日蓮正宗しかない。
あのふわふわした多彩な表現の感性を真っ芯で会得する唯一の方法が極東の伝統宗教に秘沈されているなんて、だれも信じないし気が付きもしないのである。
なぜ次世代のギトリスが出ないのか?
人類の希望は隠蔽され続け、若者たちは心を凍り付かせて魂の開放を許されない。
ただの身分制度として階級としての音楽家、演奏家は、小さな愛を振りまいて完璧な商品を売り歩く行商をやらねばならない。
音楽留学の渡欧の意味はその魂のためであり、音楽を育む環境に身を置くためなのだ。
サイボーグ育成の時代に、サイボーグになった若手に対して、魂を育成するために日本の伝統宗教日蓮正宗をやればよいと言ったからといって、理解できるサイボーグなんていない。日本で仕事がもらえなくなる心配があるから音楽と魂の育成はできない。
大いなる愛、人間性あふれる慈悲、音楽の芸術性なんて、素人や聴衆がいちばんよく感じ取っていて、そしてそれはもうこの世には存在してはならない時代なのだ。
バイオリン文化はとてもすそ野が広く、むしろクラシックバイオリンはそれほど支持されなくなりつつある。ストラドやガルネリが庶民には高額で、海外演奏家のチケットが高額ならみなさんが敬遠するのも無理もない。
音楽家に富裕層の御機嫌伺という宿命があるのは仕方ないが、ホールの外に全人類が存在していることを忘れて永遠の夢に耽れるほどの幸福でもない。
そのあたりがギトリスやハイフェッツとはみんな違うんだなと思う。
ホールの目の前の聴衆に向かって演奏するようでは、接客業であって芸術家なんかじゃない。全宇宙と響きあう魂の開放とまでいかなくても、せめて人類に対してきちんと顔向けできる仕事をしなければならない。
世界中いつの時代にも業界で生きていくために音楽を犠牲にするしかないという信念に埋もれていく人たちはいたが、今はひどいことに個人の音楽芸術家はどこにも成立していない。
東京もコンサートはたくさんやっているのだが、音楽ができない演奏家が普通になってしまった。
仕方がないからオケ鑑賞をしながら、無理を承知で自分がバイオリンで音楽できるようにやってみることにした。
ふわふわの大きな愛と慈悲で。