高校の教員で成績がエリートだった先生が担任だった。共通一次試験が全教科満点という東大でもトップで入れる成績だった女性教諭だ。母子家庭に育ち、母子家庭を築いた方だから決して超富裕層出身ではない。とても身近に感じた先生だった。
私も予備校に現役で行っていたときには東大京大クラスだったからそこそこ成績は良かったし、家庭も一般的な家庭だったからである。
彼女が日本人は判官びいきであると授業で発言したのが、なぜか脳に焼き付いた。
曲解だと言われるだろうが、国民主権を揶揄しているのだと感じた。
エリートがすべて決めると国が繁栄して日本人がみな幸せになるという幻想を抱くのがエリートである。実際はそんなにうまくいかないしいっていない。
国民主権でいろいろ決めるといいというのが基本原則である。原則は原則だから別に完全である必要もない。国会の議決がなにより優先されるということと、弱者への配慮を優先することが一致すればよいが、そうならない時に政府の頑迷さが社会保障を維持させることになる。
エリートの側は貧乏人や障害者がなんとか生計がたつようにしておく、つまり全国民が生存できるようにしておく、という安全策をとっているつもりである。
しかし、国民主権はたんなる多数決に置換されることが多いから、貧乏人や障害者は死んでしまえばよいという社会保障不要論や死刑論者が多数派になって、数千万人の国民は生存できない。
エリートの優越性がそこにあるし、またそれしかない。
政府絶対主義のようになってしまい、国会や民主主義が育たない。
実際、貧乏人や障害者にきちんと手当してやっているというのを額面通りに受け取れる人は少ない。自殺する人もあとを絶たない。女性差別も根強い。
エリートはきちんとしてあげているつもりである。
その上から目線でしてあげているというのが、きわめて傲慢なのかもしれない。
当事者たちは生活できないと悲鳴をあげている。たとえば生活保護の人が生活が苦しくて首をくくりたいとか刑務所に行きたいとか、生活できないでのたうちまわっているのである。
ワープアの問題とあわせて解決されるべき問題だ。
その両方を下げ続けてきた自民公明政権は言ってしまえば悪徳政権で、どんどん貧乏人や障害者が自殺するように取り計らってきた。政府内部にもそれでよしとしてきた人たちがたくさんいる。内閣に忖度してのこともあるだろう。
エリート意識というのは忖度優先で国民は後回しになるということだ。
事実として自殺者と変死者が膨大な数記録されてきているから、国民後回しで判官びいきは悪いという意見を優先してきたことがよくわかる。
つまり故意にであるが、エリートは組織として国民を自殺変死に追い込んでいるからだれも責任を問われていないし、もし問われても無罪放免である。
そこにコロナが襲来して日本は終わったと考えるのも自然な印象であるが、あたかも全員が負け組になったような時代が来たので、私としては仲間が増えたような気がして安心感もある。さまざまな状況や要因で人生が上手くいかない人が増えれば増えるほど弱者にやさしい社会、国民性が育まれることになるからだ。
ポイントは最大限の努力が報われない人がいくらでもいることだと思う。
政府エリートは弱者にしてやっているという反面、努力していない人が悪いのだから苦しいのは当然であるというまちがった因果応報の考え方をしている。そんなアリとキリギリスみたいに単純になっているほうがはるかに少なくなってきた。
一時期はマスコミも政治も勝ち組をもてはやしていたが、もうそんなむごいことはできないのではないだろうか?自分さえよければいとか努力しろとかいうエリート意識、ゆがんだ日本人意識というのは改めなければならない。
政府に忖度して弱者は死んでしまえというのを常識であるとするならば、日本人に人権感覚はないということである。
しかし判官びいきは過去の話かといえばそうでもない。
完璧な人間なんていないし、民間の常識は弱者に対してもある程度寛容であるということである。
それをエリートや政府の大方は嫌うのだから、エリートに人権感覚が不足しているのではないだろうか?
政府の安全策は実っていない。たんなる自殺のおすすめに終わっている。日本版安楽死のつもりであるならそれは間違っている。