宗教熱心なのは原則個人の資質を高めるため、健全な共同体を形成するため、様々に有意義なのは理解できるが、反面、従わない者はポアする教義的根拠を組織的に共有して個人を殺害したり死に至らしめて正当な宗教行為の一部であると主張する。
ロシアの開戦の根拠のひとつも宗教的な正教会の分離であり、ウクライナと敵対関係の基本構図となって相手国攻撃をためらわなくなった面がある。
では、平和をうたう正教会などキリスト教が戦争に走る時、政治はなぜ暴走したのか?
政治とは国家主義者の組織行為であり、国家を信仰の対象として利用して国民に強要する国々がほとんどすべてである。
国の憲法や社会規範が適正であれば、それは大した問題にならず、国民に平等な機会を付与し繁栄しつつ周辺国と協調協議しながら平和的に従わせることができる。
しかし、そうでない国々の政治は明らかに軍事力で自分たちを権威化して野心を満たそうとしている。
この政治の性質の違いは決定的な方向性の違いだから、それが度々国家間や国家連合体間で衝突するのが戦争だ。
宗教を問わず主たる宗教に逆らう民を虐殺、民族や人種で虐殺、それらを国家・政治が権限を行使して遂行するケースが後を絶たない。
この困難さは先進国ですら同様の残虐性をもっており、むしろ先進国ほど残虐さが際立つ。
政教一致が悪いのは、前向きさを否定して人間の死に無頓着に正当化するからだ。
国内で相当数の死者がでたとき、テレビで官僚出身者があっさり「犠牲者は当然出るものだから問題ない」と言い放つシーンを度々目にしてその無神経さに進言したくなるのは私だけだろうか?
どの国に生まれても人種や民族や宗教がなんであれ、現代の豊かな情報ネットワークの中で深く考えて整理しておかねばならない。
とるべき進路や行動を間違えないために。
人類の平和と愛のある世界へ。