FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

テロと原爆と共同体と

アメリカ下院議会議員が広島長崎に続けてガザに原爆という趣旨の発言をした。

真珠湾攻撃も軍事テロの1種で、ここでその後の非人道的な日本軍の一連の蛮行をわざわざ挙げる必要はなく、広島長崎への原爆投下の理由とされる。

しかしながら大多数の日本人には原爆投下は絶対悪だという日本的な、その実はアラブ的な逆怨みの主張しかない。

この問題で、当時の日本軍や日本の政体を日本人臣民は選択できただろうか?

つまり、選択できなかったが故に、原爆投下はやりすぎだという感覚なのであろう。

公正な選挙で政権を交代させて、平和的な国際社会秩序の範囲内で国力を充実させる方向を選べたら選んでいただろうか?

私は甚だ疑問だと思う。

冷静な国際社会秩序の協議に継続的に取り組めた政治家もいなかったし、現在までそんな優秀な政治家はいない。

テロ対策で無関係な人まで犠牲にしてよいのか?

他の記事でも書いたが、個人的には無関係だという主張が成り立つけれども、国家や共同体としては、どう言い訳をしても不可能。

軍政や独裁の構成員、一員としてみなされる。日本人が学徒動員や軍需工場で勤労して軍に協力しなければならなかったので、日本人はまさに準軍人として殺されたし、巻き込まれるように政体がしていたから、それは今のガザ地区によく似ている。

その場合に生き残る道は亡命しかない。

その合理的判断をした人達は、世界中どこにでも存在している。政治的に不安定という理由だけでも亡命する人達はたくさんいる。

日本人もアラブ人も情に厚いと言えば聞こえは良い。

しかし、指導者が暴走した場合に止める意志や意欲には乏しく、テロや戦争を止めることが出来ない。むしろ態度はテロに協力的だ。仲間意識が強く、指導者の誤りの犠牲になる。

つまりテロ行為は実行犯だけが悪いと見るのは間違いであり、冷静な目からはその共同体への所属そのものが犯罪レベルの大罪なのであり、亡命の理由でもある。

生まれつきの共同体に安住し盲信することの危険性を明確に認識すれば、かなりの共同体について罪のない市民なんて存在しないことがわかる。

まず冷静にそのあたりを認識するレベルのユダヤ教キリスト教系や日蓮正宗などの知的水準を学ぶことも必要だと思うが、ぬるま湯に慣れきっていて、ある日突然被害にあった罪のない市民をアピールしている虚しい人間にならないように思考して行動するように願い、もって人類の進化と世界平和を願うものである。

テロ対策に原爆はやりすぎだという感覚は寝惚けたコアラのようなものであり、まず共同体内政でテロ対策がなされていなかったことを深く憂慮して行動することが先決である。アメリカ軍やイスラエル軍、ロシア軍に原爆を使用させる口実を与えてはならず、すでに口実を与えているウクライナハマスの共同体構成員が今何をなすべきか、冷静に思考して行動するべきだ。

日蓮正宗の謗法与同罪という概念は確かに宗教上のものだが、ナチスに従順だった真面目なドイツ人の問題と二重映しに見える。

猛反対するべき時に従順とは何事か?

ハマスに猛反対するべき時、ゼレンスキー政権に猛反対するべき時、ナチスに猛反対するべき時、その時を大多数の日本人は見ようとしていない。