FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

庶民を足蹴にするので店舗でも経済活動に悪影響が目立つ 人口減の内容は老衰による死亡ではない

都内のあるドンキで飲料を探していて、唖然とする。

コーヒー系の500ミリ前後のペットボトル飲料売り場。

68円78円98円108円という札がランダムにある。

68円の商品がない。

78円の商品もない。

98円以上の商品はたくさんある。

コンビニでは100円商品が最安なので、おおまかにドンキに何を求めて入店しているのかが一目瞭然ということになろうか。

自由な資本主義経済という建前になっているが、選択肢は実際上0択だった。

68円78円が3択で棚にはない。

その日はあきらめて家まで飲み物は我慢した。

ポイントは相当数の国民が不自由な生活を送っていることだ。

その数日前は別のドンキで偶然68円の道路沿いに出してある商品があったのでカラカラののどを潤した。

コロナはちょうど日本列島への核兵器使用の一歩手前までの被害をもたらしている。

みんなで「みずー」「みずー」と言って街路を歩いているのは、心底おぞましい情景だ。

住宅ローンが払えず自宅が吹っ飛び、家賃が払えず賃貸を退去して路頭へさまよい、離婚がさらに増加し、原爆症のように値上げした値札に突然死したり不安から万引き犯になったりする者が後を絶たない。将来ある若者が学費を支払えず、生活費に困って学業に専念できず、路頭では虐待された10代が住居もなく身分証も取り上げられて売春に追い込まれている。

「かねー」「かねー」と言ってうじゃうじゃいる市民に同情など要らないという考え方が政府の考え方だ。

自衛隊は地下司令部を建設し、一般市民はミサイル攻撃を受けても知らないという。

太平洋戦争当時も兵士のために市民が餓死寸前でまともに食べられなかったが、現代においても防衛予算のために国民生活を犠牲にしようというキャンペーンは同じである。自殺してくれたらよいという希望はまだ控えめだが、手りゅう弾の支給はまだである。

建設国債、必要経費に予算をつけないまま、蛇口を絞ってのどをカラカラにしているのは、政府の差し金、カルトと軍国主義者、神道の思想によることは明らかだ。

NATO諸国は、その古代ユダヤ的な段階から進化したから、国土を潤すように給付金と補助金をしっかり支給して、悲惨な経済循環にならないようにしている。

昔はアメリカが原爆を投下したが、今はアメリカの代理人として政府が日本人を飢饉状態に追い込んでいる。

その様態が残虐非道にしか見えない。

人口推計が50年後に8700万人いるというが、その数になるためには強引にかなりの移民を受け入れるしかない。

日本人の純然たる人口は6000万人前後まで落ちるだろう。

20年ほど前に創価学会の会員が目指しているのは神道を規範として日本の鎖国と江戸時代の虐殺ができる政治経済であると直接話を聞いた。

障碍者は国の権力で殺してもらうという発言も確かに聞いた。

公明党は地方議員を相当減らしたが、自分たちの美しい主張と実際の虐殺思想のギャップを自覚しなければならない。

維新も庶民がどんどんルンペンになり発病し医療にもかかれないようにしていく政策をどんどん実現している。

違う形で江戸時代に戻そうとしているが、いずれの新興政党も士農工商を商軍工農の順番にしたいのだろう。えたひにんは餓死か発狂してくれると信じているのだ。

庶民の側にも問題がある。

ドロップアウトすると終わりだという思想を奉じているので、それがそのまま富裕層でないことがドロップアウトと同じことになり、庶民はそもそもまともに生きられない政治になっていくように仕向ける大政党に対して意見が言えない。

全員が下を見て、下を叩き潰せばよいというのは、江戸時代で終わったわけではない。

神道カルトの仕向けるイジメ社会に協力していれば、それは政府は国民を苦しめても無責任であり続けられる。

日本には、だれも幸福な人間はいない。

人間性を捨てて人間性を謳うのは無理なことだ。

マフィアに銃の取り締まりをさせても、身内には甘いので無意味だ。

日本国民の定義が神道であるという場合、まさにヤクザと同じだ。

先進国の政治経済をまったくわからないし、国連の勧告も軽視してやりすごすだけ。

自由とは悪意の実現の自由か。

非人道性の実現は、原爆だけではなく、現在の政治経済でなされている。

積極財政を正しく採用して、国民生活を豊かに循環させて多様性を現実に尊重できるように政府がしなければならない。

店舗で誰もが飲み物くらいは自由に選べるように。

人間の尊厳を尊重する政治であってほしい。

現代でまだ宗教熱心な奇人変人たちが政府に巣食う。

人類の善良性や良識に対して、さらなる謙虚さを発揮できるように願っている。