歴史観が政権の移り変わりと戦争ばかり見ていると全体像や深さを欠くものになりがちだ。
権力者が誰だったかということ、どんな兵器のどういう軍隊があったのか、それはそれほど重要ではない。
王朝や王権、政体や経済制度のベースの有り様のほうがより重要だ。
ベースに載っているだけのものは、また移り変わる。
ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。
細かな人間の内面描写に心理的葛藤を見出しうる文学が、歴史の行く先を示す羅針盤である。
勿論現実の証言には生々しい心理描写が含まれていて、史実として遺そうという賢明な組織は世界中にある。
文化と文化の衝突、文明と文明の融合、宗教紛争、人々の暮らしと戦争もなかなかに複雑で、そこを学ぶことから、現代の日本も学ぶべきことがたくさんある。
もはや伝統的日本文化は一般には存在していない。
自衛隊は全面的な戦闘ができないがそれは明らかに法の問題ではない。
そして、無理矢理あつらえる日本富裕文化のために、一億人を苦しめて平然たるユダヤ帝国主義者や神道筋の横暴は客観的にバレている。
バレバレだからこそ、日陰の学識者や日本版ヒトラー志願者たちがうごめき、声を発することができる。
進むも地獄引くも地獄。
時間の進行は止まらない。
さあどうしたものか?
諦めきっているような中での生きざまを選ぶか、それとも。