児童生徒、学生研究員社員など立場を問わず点数をつけられることは、あまりにありふれている。
なぜ何のために、神経をすり減らして生きる必要があるのか?
そういうものだからと洗脳する国家経済メディアが氾濫。
多衆を締め上げて搾り取れば、出世して階級が上がり、資産増で勲章まで貰える。
学校を卒業してから二十年近く、試験の日に寝坊する夢を見て心臓が凍りつく思いをしてきた。
今はまた頭髪が減少するなど別の寒い思いがあるが、はたしてこれが国民全員とか人類の八割以上とかなら、どれほど愚かなことだろうかと思う。
資本主義でも共産社会主義でも大差なく寿命に悪い思いで一分一秒を削りながら人間はパーツや手段に甘んじて生命を浪費する。
媚びまくってよく頑張っていれば赦される安心感に生きている人たちがいる。
うまく煽てあげれば人間は点数を稼ぐこと、数字を上げることにのめり込む。
収益と税収と格があがるから、うまくいってる感に浸れる。
しかしGDPもこれから指標としては古くなるように、数字はトリックを見えなくする危険な魔術である。
家事育児を貨幣換算するのは進歩か破滅か議論の余地があるが、大切なことが何なのか動物的なレベルに落ちることも危惧されるし、基準がそもそも他人や他民族他人種のためのものもあり、数字に騙されないことが人間の基本条件のひとつだ。
数学なんてというのは、時期尚早で、ひと通り学ぶ意味合いがわかるまで学んでおくべきだ。
無理して勉強して点数のために人を足蹴に見下すのは、ちょっと違うが、点数は理解度の目安として一応必要なので、理解を補うための支援こそ重要なところ、日本人はなんでもカネにするためにしか勉強しない。
むかし中学校のある教諭が試験は落とすためにあると何度も繰り返し言っていて、学ぶ喜ぶとか社会に貢献するために学ぶとかいう観点は著しく欠けていた。
人間疎外の学問や試験が日本の主流だからこそ、官僚政治家たちも国民不在の税徴収競争に明け暮れるしか能がない。
人間味とか人間的とかの象徴たるクラシック系音楽や文化においても、本邦の村社会の排他性は著しく、多少なり改善努力の痕跡があればよいほうだとされる。
日本ではあらゆる努力と誠意が金銭換算されて吸い取られていく。
還元還流らしきはない。
安心したいのが生物なのだから、貨幣を行き渡らせ、教育機会を行き渡らせることは大前提になる。
やはり、日本人は愚かな民族だと判ずるのが正確なようだ。
地獄指向の民族地域というのは、誰も幸福にならない。
溜め込んで幸福だという狂気のガメつさは、まさに餓鬼界であり、社に悪鬼神がいて神札が人間の生命を吸い取るという日蓮の教えは、現実を見事に言い表している。
点取り虫なんて、どうでもいいんだよと侮るのは危険だ。
子どもの探究心を大切にし続けるためには、大人の点取り虫を作ってはならない。
善き人間、社会貢献活動できる人間こそが人類の一員である。
点数にとらわれずに、幸福へ向かって楽しく明るく歩むために、なすべきことはなんなのか?
日本人も途上国民もよく考える必要がある。
たった1人でも怯えている人間がいてはならない。
学問を、宗教を、政治を、脅しに使ってはならない。
断じて人間の幸福が目的なのであって、聖職者や国家宗教のための人間ではない。