日本など未開の国では、キリスト教信徒は迫害されるのが当たり前。
そんなものやるのは、おかしい。
迫害されない国があるのだから、迫害されないところでやればよい。
もっともらしいアドバイスは、とんでもない。
迫害は、権利侵害で自由を認めないということだから、悪意のアドバイスである。
もうひとつは、迫害が当たり前なら権利侵害も当たり前だから、誰かを殺すために迫害を使えるのが未開の国の特徴だ。
嫌いな人や遺産を獲りあう兄弟などで、アイツはキリシタンだと言えば殺しても(死なせても)無実の問題ない案件として処理できる。
かつ、それは日本のキリスト教会や各協会においても日常的権利侵害があるということでもある。
偉い人とか、神父、牧師、堅信の位などは、私刑的に死刑判決を下せることになる。
ビートたけしの映画でも、1人ずつ殺害していくだけのコミュニティが描かれていたから、日本人社会に何の幸福もないことは誰の目にも明らかなのだが、命が惜しいかカネが惜しいかというヤクザの威しそのままに、日本政府もキリスト教会も見殺しが社会規範になって数千年しても変わらない病理と遺伝子は、変えれば変えることができなくはない。
ただし、宗教家のいびつな遺伝子だけは、なかなか変わらないだろうから、政教分離原則は絶対なのだ。
幸福より教義を優先し、幸福の定義と科学的根拠と事実とが合致しない場合ばかりで、伝統的宗教ですら危険極まりない。
宗教は宗教本来的使命に徹して欲しい。
したがって、日本国に登記している宗教及び行政判断はすべて信じてはならないという命題は真実である。たとえ、権利擁護を伴うものでも、信じてはならない。
迫害を逃れるために他者を犠牲にすることも権利擁護だからである。
権利擁護で殺害を正当化するのが宗教の使命だと信じている日本人は、明らかな間違いをしているが、それは魂が邪で信仰者ぶっているだけだからなのだ。