まだわたしが小学生のころ、記憶では2回、長崎県の「月光の里」というロッジ村のようなところへ行ったことがある。
ただの観光地という趣きではなくて、哲学的に優れた先生の私塾であり研修村という感じだった。
小学生のわたしにも、なにか感じるものがあって、今も自分の人格形成に大きな影響が残っているなと感じる。
小松先生の講話を聴いていると、チューインガムや食パンなんて、毒を食べているだけのものが時代のスタンダードになっていると警鐘を鳴らしていた。
その時は、被爆とか大学教授とかの概念はまだよくわからない。子供から観ると、ひどい目にあった威厳のあるおじさん。
小学校で鑑賞したはだしのゲンの映画は9〜10歳の頃だから、まったくわからないというわけでもない。
すでに祖父母から引揚げの話を克明に聞かされていた。
その「月光の里」では年末年始、絶食行をやっていて、数日間、胃を空っぽにすると健康に良いという話の実践機会になっていた。
わたしがまだ小学生なので、と小松家ではこっそり餡餅を焼いてくれたが、それがよくなかったらしい。
胃がびっくりして、いっしょに飲んだお茶といっしょに吐しゃしてしまった。
その晩は誰かが泊まっているロッジで首吊り自殺をしている情景の悪夢にうなされた。
今になってとてもよく理解できるのは、日本人の風潮のおかしさ、食生活の問題、生命の尊さへの敬意の忘却、人間の利己主義と衝突と戦争のメカニズムで、講話の空気で感じ取る人格的鍛えも同じ人生をいかに大切に生きるかというメインテーマだと思う。
そしてそういう人間らしい地に足のついたつましく逞しい積み上げは、時代や政治経済の濁流にいつも押し流される。
戦争も医療行政権限濫用も今も同じ人類の不幸だ。
小学校3年生のころだったか、ロッジの点在するその森の中で、バイオリンを少し弾いてみたら、たくさんの周りの木々たちに音が伝わって、彼らは樹全体でバイオリンを聴いてくれた。
その時感じた木の生命たちとわたしの心の出合いを、ついこの間のことのように覚えていて時折思い出す。
いや、バイオリンを弾くことじたいが毎日の地球の樹々と植物性生態系との対話なのだ。
そう、人間だけが生き物でもなく、人間ほど残虐な生き物はなく、バイオリンの木と森の木々とが共鳴するのには、なんの抵抗もなくヴィヴァルディやバッハの優しい福よかな音色が森の中へ拡がっていく不思議な感じが心地よい。
科学でも歴史的事実でもそのことは明らかだ。
人間ほど愚かな争いと加害をするものはない。
技術は魂胆を果たすための道具であり、智慧は共生を実現するための心である。
恥ずかしながらまだわたしは小松先生の著書を拝していないと思う。
しかしながら、少年時代のわたしは確かに何かを掴んでいた。
書籍紹介から抜粋
月光の里―生きがいの探究