雑貨スーパーの中でポップスの歌が流れていて、男の子が「みんな同じなんて」という意味の歌詩を歌っていた。
わたしは一瞬、まだ子供がわからないのかと思い、次にわたしもそう思ったし思い続けていることを思った。
みんな同じというのは、大人になる過程で教育洗脳されるものがある。
納税者の標準規格化。
そんなもの人間の心とは折り合わない。
区別しなければならないのは、個の差異と法則性の平等だ。
ひとりひとり、ひとつひとつ、それぞれ完全に別で個性豊かであることと、物理化学などの科学的法則や魂や心の変化法則と普遍的法則などがみんな同じだということ。
そんなのあたりまえに理解できるのだが、それなのに人間の心にとてつもなく途方もなく響くセンテンスが「みんな同じ」。
家庭や身近な人間関係から少しずつ 世界は拡がって、その中で確かに共感すること体験すること知ることが増えるにつれて、みんな同じところがあることに気が付く。
自分は自分であって、他の何ものでもないことは確かなのに、どうしてこうも同じ反応をするヤツが世の中には沢山居るのか?
わたしの場合は、小学校全校生徒数が1000人余いて、知る限りバイオリンを習っている人はわたしの兄弟と弟の同級生ひとりだけ。
弟の同級生は欧州のプロオケ楽員になっている。
公立市立で成績優秀、ピアノ、スポーツで優れた人の数よりも、まだ希少だったので特にわたしの個性として知覚しやすかったし、プレミア感があった。
私立中学校で知る限り同級生116人中3人が習っている。ガンダム、ガンタンク、ガンキャノン。
自分がみんなと違う感覚を持っていて、ガンダムのニュータイプよろしくスーパーヒーローかという勘違いのレベルが懐かしいが、その当時すでに大人に諌められている。
しかし、いくら言われても、諌めた先生がベタ褒めでは、多少勘違いするのも致し方ないし、社会人の中で突っきるように弾けていれば、わたしはみんなと違うのだと思うには充分だった。
芸大や桐朋に入学してから周囲がみんな上手いと落ち込むか焦るパターンがおおかたみんな同じ場合が多い。
調子こいて国際コンクールで奈落の底の人も珍しくない。
特別に認められる人以外はみんな同じようなものに思えてくる。
どの分野でもある程度はそうなのだけれども、実際問題、全員が個性的であり、豊かな個性を活かすも殺すも人間次第、ご縁次第なのだから、まったく落ち込む必要も焦る必要もない。
50歳がそろそろ見えてきても、毎日みんなと同じことの繰り返しをしながらも、毎日新鮮な違いを見つける楽しさのほうが、希望になる。
それは自分が人と同じ法則で好転したり悪化したりすることを考え選択する楽しさでもある。
自分のその日の体調や地球環境や地域状況との掛け合いや対話の中で、今日しかない今日の唯一性、独自性と向き合っている楽しさ。
みんなとすべてが違うというのは、孤独そのものでもある。
同じでも構わないし、違うのも事実だし、最期死ぬときにも、やっぱりみんなと同じだし、みんなと違う。
15歳の頃に、世界一上手いバイオリニストになれると感じた自分の感覚と心一杯の思いが、今もって鮮明に残っている。
もちろん99.9999999%の人類と同じように、理想的なカリキュラムを得られずに実現していないのだが、わたしのわたしたる所以がなんであれ、やはりわたしはわたしだと思い、みんな違ってもよいと思う。
違ってもよいと思うが、栄養失調や教育機会の不平等不均衡や心身の傷をみんな最小限にする努力は精一杯するべきだと思う。
なぜならば、あまりにも日本や途上国は悲惨すぎるからだ。
ほとんどみんな不幸よりは、ほとんどみんな幸福がよいだけのことだ。
為政者、為政者側は堕落するものだ。
国滅び民が不幸ばかりになったとき、みんな同じだとささやく。
そこにある悪意を見抜いてみんなで幸福になるために何を為すべきかよく考えるとよい。