FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

ウクライナ進攻から1年で展望は

先日、人間不信ウイルスが世界にと記事を書いたそのすぐあとに、NATOトップが「中国に信用ない」と発言した。

言わんとするところはあるのだが、対話とか協調とかいう路線がないことが特徴だ。

従前からこの記事では、西側が多数派でありながら、別に大国の中国インド南米アフリカの諸国が西側とは距離を置いていることも指摘してきた。

西と東ではない。

カトリックプロテスタント連合対ロシア正教会という分け方もできない。

大国対小国ではくくれない。

自由主義を否定している国は、実はどこもない。

専制国家はその傾向を示すだけで自由な時代になっている。

おそらく北朝鮮ミャンマーイスラム圏、奥地の地域国家など極めてマイナーで主たる紛争当事国ではない。ロシア中国インドに密輸とか第三国ルートの交易をするような国や地域勢力でしかない。

世界を統一してイスラエルのために奉仕しなければ、まっとうな常識人ではないという表向きの建前があり、それは確かにキリスト教文化の影響が色濃い。

それを主流として考えるともぐら叩き的に世界中で衝突が起こるという分布になっていることが重要だ。

エルサレムのために、新自由主義というアメリカ帝国主義のために、すべてをささげよというメッセージは、世界中で怪訝顔で拒否されている。

その価値観は多くの日本人ですら本心では受け入れがたい。

ましてや多くの国、国連の決議で反対・棄権している国々においては、それは一つの勢力の価値観としてのみ認識され、完全なる履行の義務を負うものではなく、命令されて強制されうるものでもない。

どんな国家も民族も様々な当事者は自由意志を持った人間だからこそ決議案に賛否棄権が表明できるという大原則を忘却しているアメリカ勢力というかNATOの盲点がそこにあると思う。

西側からすると、ロシア軍がウクライナ領土を蹂躙したというし、国際法違反で領土を軍隊で占領するのは問題だということが容易い。

しかしロシアを代表する国々にとってみると、アメリカ資本が各国領土の資源や文化を買いあさり、不公正な投資を、NATOを後ろ盾にした経済支配関係を強要されてきた屈辱という経緯と現実がある。

世界に網の目になったネットと物流ですべてつながっているが、心と心のつながりが人間的であったとはいえない。合意は強圧的になされてきている。

その歪を放置して、アメリカ国旗を世界中に立てて占領アピールをしてきたのは、やはり地域の心を蹂躙してきたことと同じだった。

地域性を重んじることを最優先して、そのうえで対等な経済交流ができるような世界的枠組みを構築していかなければ、アメリカ帝国主義という力による世界征服とその反動と独立大国と勢力の世界分布という繁栄が野性的かつ人間が動物的な荒廃した世界を現実に実現している。

地域性とは社会インフラを完備して高度な労働人材を圧倒的多数に排出できる国家地域を増やすことである。

地域の3パーセント未満しかまともに大学院や留学など進学ができないような途上国及び日本型の富裕層限定モデルは歪なのである。

そしてその最大多数の幸福という視点からも世界はまだまだこれからの段階だ。

むしろ現在は最大多数の不幸を実現しているのだから、ロシアを悪者にし、中国を不信と憎悪の目で見るだけでは、世界が不安定化する。

紛争は終結しない。さらに悪化するばかりである。

国連決議に反対棄権した国々の国土面積と人口と天然資源と農産物を総合した場合には、世界はアメリカ中心ではもはや動かないことに気が付く。

アメリカを説得し、ウクライナに明確なメッセージを送れるかどうかという、一般的な日本、G7とは異なる立場で和平を模索する必要がある。

世界を俯瞰しつつ、同じ人間として独立性や尊厳性を相互に保てるように停戦の必要性を説けるかどうか?

人間は疑うことに慣れすぎて、信じるべき瞬間のツボを見過ごす。

誰でも同じように失敗をする。

そして最大多数派の開き直りは損害が莫大なものになる。

G7NATOの価値観の優秀性は、現在進行形で自己破壊されている。

問題は残っているが、最大多数の幸福実現においてはむしろ中国が現在は最優秀である。

この不均衡状態を対話と協議によって相互に補完しながら高め合う関係性になっていくためにこそ、国連が機能すべきなのである。

テーブルは一部の国を吊るしあげて戦車を破壊し無垢な兵士を殺戮させるためのものではなく、大国が進攻に踏み切った原因を冷静に議論して進攻の必要性を感じなくさせるための場である。

その国連の役割と使命をアメリカ発で蹂躙していることも確かであり、このままではさらに中国が参戦し、ならずもの北朝鮮も便乗し、収拾がつかないことになる。

その結果責任をだれになすりつけようと、世界中の日常が危険にさらされ、ほとんどの人の人生設計を狂わせることになるだろう。

そう、防衛産業だけ儲かるのは、あまり賢いとは言えない。

尊い日常をまもるためには、私利私欲や収益至上主義ではいけない。

人間の尊厳、民族の威厳、地域のインフラ、世界全体の交流と調整、それらのための真剣な討議の場を今一度、本来の役割を果たすことができるように、見直してみてはどうだろうか?

戦うというのは、とても威勢がよく、恰好もよい印象だし、気持ちはよく理解できるからウクライナ人の犠牲だけでなくあらゆる犠牲者には感涙を抑えがたい。

しかし本当にそれが必要なのか?

これ以上の犠牲が必要であるという要求もまた国際法上の違法性を帯びる不当な人生への破壊活動である。

一日も早い生活の再建、まっとうな国造りへの歩みを願っている。

指導者たちには建設的議論のテーブルを想起して欲しい。

人間のレベルが試されている。