FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

社会学と日本特有の病理

2022-10-24
公的ないじめの自覚なき日本
Journalism12月特集「公助はあるか」に掲載された「仏社会学者が見た日本の貧困 「不可視化」を招く自己責任論」。

著者はフランス社会学者のメラニー・ウルス。

わたしは記事の要旨だけ掴んだのだが、日本の公務員はアタマがおかしいレベルで社会福祉に対する理解がない人が多い。政治家は例外のれいわ新選組を除いて一様にボケナスのレベルかも知れない。

年金や生活保護を引き下げるだけで、賃金を抑えることができる。

責任を自民党に限れば批判は容易だが、実は旧民主党や維新も大差なく社会福祉年金介護を切りたいだけの暴虐を日々狙っている。

暴虐をいかに実現するか、現場ではどうなっているのか、フランス人は以下のように見たそうだ。

「現場では、申請を希望する健常者は疑われ、時に非難され、受給者は管理される。担当職員は、本来の任務である保護よりも、調査や監視を任務だと感じているかのようだった」

「相談は職員による取り調べと化しており、職員は申請を退けるための情報を見極めようとする。最初の重要な判断基準は『就労能力』なので、事実上65歳以下の健常者ははねられたり、受付窓口では、社会で支配的な価値観や基準からかけ離れている人も除外されたりしやすい。高度成長期から継承されている価値観やモデルに順応できる人、国家の保護に値する人を選んでいるので、貧困であるかどうかは副次的な基準……少なくとも、私にはそう映る。現場で見られた脆弱な人々に対する行政の冷ややかな眼差しや敬意を欠いた対応は、言葉の暴力や象徴暴力であり、それが彼らを無視し、貶め、尊厳を傷つけているという意味で『行政虐待(administrative maltreatment)』(貧困撲滅NGOが提唱した『制度的虐待』だ。」

 

組織的暴力はそもそも暴力団や反社会的勢力の専売で、日本ではその区分け仕切りを誤っていると批判されても仕方ない。

日本ではコンセンサスが出来なかったから制度的虐待があたりまえだという面は、シンプルに政治家がボケナスで日本人の意見要望が聞こえていないだけのこと。ナス。耳などないのだ。

自己責任論は各党を支援している宗教団体の規範や信条であり国民感情ではない。

無駄に国民を苦しめ、無駄に売上数を減らし、無駄に国民を死に至らしめて平然としている宗教家も極悪人たちだが、政治家は政治的に正しい判断ができないなら立候補しないでほしい。

そこを見極められないまま投票したり投票しなかったりするアホな国民は学習していただきたい。

なにもかも本人の努力が足りないなどという極論に頼りきっている古代人レベルは1日もはやく卒業して、はやく人間になったほうが幸福である。

農耕と漁業だけで生きられるなどという時代錯誤から抜け出して、下らない宗教にとらわれず、人間とはいかなるものか学ぶとよい。

働きたくない人がたくさんいるのは、神道を国が採用しているからだ。

日本人は神道をやる限りナマケモノの犬畜生のレベルから脱皮できない。

ただ地位とカネというのは、動物の群れの一員に過ぎず、人間ではない。

馬や鹿のほうがまだ賢いという教育家も世界的に珍しくない。

神道を批判することはブログの目的ではない。

暴虐や虐殺をやるべきだという宗教は個人的には改宗するべきであり、国として当然に採用できない。

個人として他人を殺せないなら国として他人を殺すべきではない。

そこをはっきり言わない日本人は人間から信用されていないことをまず自覚したらよい。

日本のほとんどは野蛮人そのものだ。