FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

コロナ対策より常識としつけ

f:id:FujiYama:20220223000123j:plain迷い箸はよくないと礼儀作法で教わるが、その迷いこそ楽しみだと反論するアホもいる。
楽しみはよいが迷いが悪いと言っているのだ。
つまり礼法では正しい心についておしえたものがある。

スーパーの売場で一度触れたものは戻さない。決めてから商品を手にしなさいと祖母(母方)に教わった。昭和のお話。
帰宅時に手洗いをするのも当たり前で、眼鼻口に触るなというのも、昔から伝染病予防の常識だ。
祖母が夕飯の後片付けを終えると炊事場に水滴はなく、毎日ピカピカにふきあげていた。
時間があれば庭の芝生の草取り、枯葉掃除をしたりさせたり、廊下拭きをよくさせられ、収穫した梅のヘタとりやニラの葉の選別もした。なにか手伝いをするのが当たり前で、なんの抵抗もなく作業に載せるのが実に巧い祖母だった。手伝いがイヤだとか面倒だとか感じた記憶がない。すべてが自然な流れであり、いやむしろ楽しかった。
節約や再利用も日常茶飯事で、テイッシュと落し紙の併用をしたり、包装用紙や広告裏の再利用をしたり、なにかつくろいではないお金のためではない簡易儀式というかこの自然界とのお付き合いなのである。
夜9時を過ぎるころになるとだいたい片付けが終わって、身を屈めて「おばあちゃんそれでは休ませてもらうからね、おやすみなさい」といつもきちんと挨拶してから部屋にさがる。

正しい心、心もちというのは、言葉の上というよりその心そのもので、日本の伝統は代々の流れのなかで肌感覚として教えてもらうものだ。
テレビコマーシャルやスマホでは学べない心にたちかえって、現在のコロナ騒ぎがいかにおかしいものか、政府関係広報の異常さを正しく見なければならない。

祖母は長生きして、なにも告げずにこの世を去って、今しばらくはゆっくり休んでもらうしかない。
あの心もちが、いつまでもわたしのなかで生きていて、日蓮正宗の題目をしんしんと楽しく唱えていると鮮明に蘇ってくる。
戦乱をくぐり抜けた、先祖の伝統を感じたのは、なによりその空気感だった。
一番よく憶えているのは、暖房のない夜の静けさと日々の心もちの感覚だと思う。
浮かれたところがまったくない祖母は新聞の絵画を切り抜いてみたり庭の花たちを愛でたり、そんなありきたりな幸福を大切にしていたように思う。