FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

あかんぼうは泣くもの

乳幼児がワイワイ泣いてお母さんが謝ったり周囲に気を遣う。
いったい日本はとんでもない国になった。
さっき街中を歩いていたら、まだ歩き始めの幼児が全力で泣いているのを、抱き抱えるお母さんの表情がかたい。
泣きたい理由があれば泣く。
お母さんにその理由がわからないだけ。
理由は小さな不安や怒りや不快なんかの説明しづらいものだろう。
理解できなくても、泣きたいのねと受け止めるしかない。
他人や近隣がとやかく子供の泣き声に言う必要はない。
虐待がみてとれるかどうか判然としないうちは、泣くものだと理解するべきだ。
今は生意気に一人前の顔をしているが、弟が泣いてもあやしてやったし、3歳の兄が生まれたての弟に泣きついたこともあった。
病弱な妹が泣く元気すらない時にはとても心配したものだ。
働いたら給料をもらうように、乳幼児が生きていれば泣くのは正当な権利である。
泣き寝入りは夜泣きしないから助かるだけで、声をあげるべきなのだ。
泣けない時は重症か死期くらいだから、みんなが微笑ましく温かく見守ってあげるように心を穏やかに保ってほしい。
色々言う人には、日蓮正宗でお題目でもあげたらよいと勧めるのが確実だ。
狭い料簡で弱いものにあたるような情けない心を変えることができる。
そういえばわたしは親戚が不思議がるほど滅多に泣かない子供だったし、生まれつき弱いものにあたるような心もなかった。
3歳で一回弟に泣き、10歳頃一回両親に泣き、20歳頃一回アカの他人に泣き、22歳の時妹に泣き、35歳に一回バイオリン教室の合奏の帰りの電車で泣いた。
35歳なんて感動感激で、涙ぐむ感動多数なような気がする。
不健康なほどツラい時には涙なんてまったく浮かびもしない。
人間には耐性をこえる出来事への対応は難しい。
あかんぼうに寛容にできない人は、おそらく心が硬直して他人に攻撃的なのだから、大人として耐性を調整するために日蓮正宗は有効だと教えて差し上げたい。
生きていれば誰でも様々な環境の変化や不本意な出来事が重なるから、本当は万人向けの日蓮正宗のお題目である。
くれぐれも宗教活動などやらないように。
金儲けに埋没しないように。
真剣で誠実な子育て中は特に、世間の顔向けなど考えないように。
子供が可哀想だしおかしくなるのが関の山だ。
心が固まったりツラい時に、心臓をフワフワに軽く、真っ暗さにどうにもならないときに、小春日和の心境にする方法としても使えるのが日蓮正宗のお題目。
よい音楽が身近にあるとまた助かる。
わたしはあかんぼうが元気に泣いているのを見かけるといつも嬉しい。
珍しく健康に泣かなかった乳幼児のわたしを見守る祖父母や親戚の眼差しがきっと温かかったのだろうと思う。
おぼえていなくても、きっとそうなのだろう。