FujiYama’s blog

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人情と公務に見る日本人 闇討ち手打ちに騙し討ちと公開処刑と

f:id:FujiYama:20210830221540j:plain千葉県で8月28日夜、警察官が騒音苦情通報者に発砲して殺害したというニュースがあり、また公務員による国民射殺事件が起きたのかと一日本人として危機感を覚えたので記事にしておく。
経緯から言って狂人に発砲しただけのことであり、死亡したって仕方がないし、警察官として市民の安全のためにご苦労様ですという書き込みがネット上では大勢を占めている。
記憶をたどると狂人らしきが警察官に襲い掛かって発砲する事案は昔からあったが、狙う場所と当たる場所が時代とともに移動してきていることが特徴だ。
足~腹部~胸部~頭部。
戦後、人命の尊さが骨身にしみていた時期には、護憲は公務の前提であり、足を狙い、実際に足に命中したり勢い余って腹部にあたることもあった。どの法律も国民の生命と財産を守ることを前提にしているが、それは憲法と国家の骨格そのものだからだ。
バブル期になると少し様相が変わってきて、土地ころがしや財テクというブームと高級志向が国民の8割くらいにまで拡大したころには、人命より金が大事だとやや憲法についての意識が怪しくなってきた。その頃は腹部から足であって、胸部には狙いも命中もほぼなかったように記憶している。発砲された国民が死亡すると大騒ぎになった。
自公政権とグローバル経済主導の90年代以降の日本は、政府が改憲キャンペーンを開始した時期である。政府は本来中立公平でなければならないのだが、一方的に改憲ありきの宣伝工作を大っぴらにやり始めた。そして胴体、胸部を狙い、実際に命中し、死亡率が明らかに高くなってきている。ネットでは射殺は正義だともてはやしている。果ては頭をぶち抜けという者までいる。
この流れの変化が目指しているもの、現代の日本人が是としているものは、射殺文化アメリカの警察官対応であり、黒人に対する暴行虐殺やアジア人に対するヘイトクライムと軌を一にしている。
しかも東洋人の精神保健に関する意識の遅れは著しく、我が国においても未だに医師による病者に対する非人道的な取扱いが問題視されており、過剰投薬や不適切な身体拘束が実際に行われている。
欧米の病者に対する取扱いはいくらか進歩しており、致死率の低い薬しか認可されにくいし、イタリアには精神病院自体がほとんどない。
いずれにしても環太平洋地域には依然として死刑制度が公然と残遺しており、その下で病者、狂人は即、射殺せよという古い価値観を正義であると信じ込んでいる風潮があることは否定できない。
日本人は戦後、終身雇用制度と一定の給与水準を保って家庭子育てを代々引き継いできた。これは平等に子孫を残し、国家が繁栄しつつ幸福を追求しようという憲法の思想が上下にきちんと浸透していたことが大きいのである。
しかし現代の日本においては、あやしげな宗教政策の政府が改憲を唱え、国会で法改正が強行された結果、契約社員が拡大し給与水準が著しく低下したことにより、子孫を残せるのは富裕層とごく一部の家庭だけになった。無理をして家庭をもっても、離婚、虐待、低学歴、奨学金地獄などの将来が待ち受けており、なんにも希望を持てない日本になった。正社員が年収300万を割り込むという事態にまで病態は進行している。
これは大きく見ると改憲と財閥政治復活の流れである。
国民の命を守るという本来的国家使命をすりかえる論法によって、殺害して当然という空気が蔓延しているが、それはそのままブーメランになって庶民に返ってきていることに気が付かなければならない。社会防衛で障害者を排除して殺すというのと国家経済のために労働者を間接的に殺すというのは同じ構造である。
家庭を持てなくて当然、グローバル経済と国際競争力のためだから当然、努力しない人が自殺と変死は当然、生活保護と年金の引下げは当然、コストや収益のため値上げは当然という空気の中で、政府と議員が主導して、違憲ではあるが、合法的に国民の生命と財産を奪いつつあるのである。
はっきり理解しなければならないが、狂人も日本人である。憲法と国家および公務員の使命としては、危険性あるときは治療最優先が公益であり人道である。精神保健福祉法23条による対応が必要な場合である。
今はネットで滅茶苦茶に殺せと書き込んでいるが、バブル真っ盛りの80年代ですら新聞の投書欄にはそんな異常な意見は見られなかった。
つまり狂人の殺害第一になった日本人の命は軽くなった。
バブル時代にマイカーブームと死亡事故の問題があったが、その頃から人命を軽視する流れは顕著に始まっていた。当時の通産省や自動車メーカーは便利さとステイタスを売り込み、消費者もそちらを優先して人命などほとんど考えていなかった。科学的データは隠され、ただ毎年何万人自動車事故で死亡したと発表されたが、それすら24時間以内に死亡した数だけだった。
ナチスドイツ下のユダヤ人虐殺はまずドイツ領内の治療困難な精神病者、労働拒否者から始まった。行政と医療による虐殺は、厄介払いとかキチガイは殺して当然だという空気から始まったのである。
戦後ドイツは国全体として改善し、戦争犯罪について政府も医療も心を改めて悲劇が起こらないように学ぶ空気に変わったことはまことに尊い人間の知性ある姿である。
一方、日本においては優生思想論者とネット民たちは障がい者を殺せ殺せという症状が増悪しており、神奈川で知的障害者を19人も殺した事件まで発生している。あれは元福祉施設職員だったが、子供を殺した親が官僚だったとか教諭だったとかいう事案はザラだ。
常に人間を非人格化して、ああいうのは死んで当然、殺して当然という空気を信じ込む一群の病気、症候群が率先して殺害するのだ。
歴史的に、その過ちは、官僚、医師、看護師、警察官、検察官、社会福祉法人職員、などなど社会的地位の確かな人たちから引き起こされている。
そこから兵役、戦死、特攻隊、自爆(玉砕)、餓死、自殺、変死、慰安婦、虐殺という人命軽視が正当化される。
そういえば、慰安婦というのが新聞社によるねつ造だとか、特攻隊は美しいとか、虐殺がなかったとか、様々な主張がなされている。
殺人が正義であるという主張がまかり通り、言い方をうまくすれば、公務員による殺害なら、医療を使えば、なんでも許されると考えている東洋人、環太平洋人は案外多いのではないかと思う。
アメリカ人も黒人差別の恨みを恐れているから、警察官が黒人を撲殺したり射殺したりしても、どこかで許される空気がある。
あとは改憲と徴兵制度の復活と貧困層の更なる拡大を待つばかりである。
歴史を俯瞰すれば、自民公明立憲という財閥政治のための政党を決して信用してはならない。
本当に彼らが人間であれば、真っ先に死刑制度について議論するはずであるが、それを取り上げると国会の中で疎外(排除)する慣例である。
死刑を維持し、公務員による国民虐殺と親権者や保護責任者による虐待を正当化する人たちが、自民公明立憲の議員および支持者である。
その責任を追及されないための隠れ蓑として障害者制度と精神病に対する偏見をうまく使っているあくどい未開人たちなのである。
人類史は人間をいかに殺害して富を独占するかという一面があったが、欧米の内部においてはそこまでする必要がないという見識が広まった。
日本でも古くから家庭内虐待死、殺害、障害者老人虐殺や労働者虐殺は発達しており虐殺の先進国であった。
現代の欧州各国では死刑が必要のない残虐行為であると認識されるようになったが、学術関係者がまず気が付いて、政治に反映された。
日本の政治はどうだろうか?学術関係者がはっきり明言しているだろうか?
まともな政治家が主要三党にいるだろうか?何人の学者が正しい護憲議論をしようとしているだろうか?
日本は世界の辺境にある。
極東地域という呼称に侮蔑的な響きがないとは言えない。
日蓮は辺土という言い方をした。
アジア蔑視というのが、侮辱ではなく、現代においてもいくらか的を得ていると言える。
ふと日蓮正宗の総講頭であった戸田城聖が「雲の井に 月こそ見んと願いてし アジアの民に日(ひかり)をぞ送らん」と詠んだことを思い出す。
昭和26年のことなので、まだ純然たる日蓮正宗時代であり、戦後護憲、人命の尊さが共有されていた時代のものだ。
国が民を闇討ち手打ちにするアジア日本はまさに闇の中である。
政府が国民一人一人の尊厳を守るつもりはないので、民は日に照らされることを期待してはならない。
当たり前だが、他人に対して、日を送る側の人間にまずなることが、幸福追求の第一歩である。
日本アジアというこの野蛮人の地域が一人一人の勇気ある信心によって文明化されることを切望する。
国家や経済や家計を方向付ける原点、起点をしっかりと定めて日々精進できることが、なによりの幸せだ。
私も地域国家をこれから日々作っていくのだという自負を持って明るく希望を持てるひかり(慈光)を胸に灯す。
特別なだいそれたことはなにもしなくてよいと思う。
無理せず卑屈にもならず、ありのままの自分のままで精進(生命尊重)する心を大切にしたい。