ずっと昔のこと。
物心ついた1980年代から私は日産スカイラインのファンだった。
小学校の担任教諭が丸型四連灯のスカイラインで通勤していた。
テレビでは当時流行った西武警察をやっていて真紅の車体はフェアレディZとペアで少年の心をくすぐった。
七代目スカイラインのデザインが特に好きで、とうとう免許をとって実際に運転したが、世評のとおりボンクラなクルマで、クルマとしてはさっぱりな製品だった。
当時のレース界でもアメ車に負け続けていたし、そもそも設計からダメだった。
フェラーリの丸型四連灯とは天地雲泥。
そこに伝説のGTR復活。レース界でグループAの優勝独占と話題になるが、なんのことはないレースの規格に合わせて勝てるクルマを開発しただけのこと。トヨタがスープラの新型を投入するとあっさり負ける。規格や排気量の違いではなんの優秀さにもならない。
時を経て、今のGTRはどこでも誰に聞いても評価が高い。
これは世界一なのか世界レベルなのかと嬉しくなる気持ちもファンとしてはまったくないわけではない。
しかし、本当は日本文化の本性がまざまざと見えた虚構と苦衷のスカイラインだというのが真実ではないだろうか。
現行R35GTRが発売された2007年当時、価格は今より数百万円安かったが、性能も低かった。
なぜか巡航速度、時速250キロ以上の性能で勝負していたのだ。アウトバーンなら多少使えるが、それでも時速250キロ以上出せる区間というのはそれほどの距離はない。
GTRは速いのだというアピールが第一になっていたので、そういう開発コンセプト。
表現は悪いが、無意味で馬鹿げたコンセプトだった。
ポルシェやBMWやアウディがハイエンドモデルにそれほどの高速域の速さを追求しないのは、自然な人間の感覚としての実用性を踏まえた快適な高速性能を重視しているから。
むしろ低中速域での立ち上がりが強い。なおかつ高速域が充分に出て、アウトバーンでも不足はなく、250キロを超えた時の車体コントロールが微妙に不安定だというだけ。とりたてて危険性が高いということもない。
2019年、ようやくGTRも中速域を充実させてきて、とうとう世界一かとなった。
そこまでに何年かかっているかという哲学の決定的な遅滞と、ようやく到達した時に価格が異常に高騰しているという夢のなさは、果たして世界一と手放しで喜んでよいのかどうか、とても複雑な心境になった。
レーシングドライバーの松田次生が中古で買ったGTRのチューンアップが低中速域の充実モノだったというから、いかに当初のGTRが馬鹿げたスカスカの設定になっていたのか再確認できた。
今の世界のスーパーカーたちは富裕層のためのおもちゃになってしまい、R32GTRのようにふつうの会社員が買える価格ではなくなった。32は460万円くらいで、やや高いのは確かだか、スーパースポーツカーにしてはまだ多くの人たちに現実的な価格だった。
スカイライン世界一、日本の夢は35の2019モデルでようやく実現したかのように見えて、実際はただの拝金主義のフラッグシップに成り下がってしまった面がある。
庶民や少年の夢としては、あまりに空しく寂しい。
多くの人類は世界観をもう少しマシに高めて、大人の贅沢とか少年の夢をもう少し価値のあるものにしなければならないと思う。
特に日本人は目指すべき目標を見直すべきだ。日本を愛すればこそ、拝金主義に走らず、哲学的に高度な真理真実を見極められる大人になるように、敢えて苦言を呈したい。
スーパーカーはこれからの時代にまったく重要性はない。環境破壊のただの贅沢品に過ぎない。
大衆の心と魂をあざ笑うマウントツールは多くの人たちを不幸にする。
もはや近年の贅沢品には品格がない。
質感と快感と優越感に酔いしれるありきたりな悪魔の奴隷になるのは簡単だ。
もともとの古き良き日本という場合、日本人のプライドという場合、哲学と品格は実用性や必要にして充分な程度の事物事象であり、自然環境と人間の高度な融合融和にこそある。
その伝統的な感性をわからずに、またわかろうともしないようなサルは、正統な日本人ではない。
世界に誇れる日本文化の核心となる伝統的価値観を今一度見直し再評価していくべき時が来ている。
金より心。
今より永遠。
そこから見えてくる今の現実の像は、現代人にとってなんと新鮮な世界だろうか。