FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

科学と株価のための人類 最新の動向を無視すれば自己を築くことができる

f:id:FujiYama:20210721142544j:plain現代人は忙しい。

家事、育児、仕事、地域行事、趣味娯楽、買い物、冠婚葬祭と目が回る。

情報が氾濫しているからみんな正しく物事を判断している、かのように見える。

その人なり、その人の状況なり、今の状況なりに正しく考えてだいたい間違いなく大事に至らないように過ごしている、かのように見える。

情報を取捨選択してある判断を下そうとすると、どうしても情報量の不足と情報の解釈の間違いと情報の恣意性や誘導性に影響される。科学者の正論にも一定の条件下という縛りがあるから、条件の違いや変化については自分で推測しなければならない。

はっきりと未来を予測できない科学者の条件下の限定された論理論証の効果は限られている。限界効用がある。

1年後の新商品、5年後の科学技術、10年後のEUや老齢年金、30年後の国連というきわめて不確かな情勢の変化の中で確実に正しいものを選ばなければ、人生を棒に振ることは間違いない。

この時点で古典文化や古典的生活習慣のすすめをしている部分があることを否定しない。

プロ野球落合博満選手がなぜ優秀だったのか、その練習方法をテレビの録画で見て改めて古典文化だなと思った。私はバイオリンを習っていて、その練習方法、練習内容が古典特有のものであることに気が付いていたが、野球も同じなんだなと感激したのでそこを少しまとめて書く。

基礎を大切にするということ。落合選手は球速40キロ程度のクセのないボールをひたすら打つという練習をしていた。回転のかからないゆっくりしたボールに対してバットをどう当てるとどう飛ぶかというのを確認し続ける。バイオリンの音階や基礎練習では、まずビブラートなしで一定の弓の運びで発音し続ける。音にひねりやうねりがない状態をまず作って、ひたすらゆっくり練習すると、自分の音がどの形状で、どういう速さで飛んでいくかが見えてくるようになる。ボールと音では当然に視覚と聴覚で違うようだが、基礎のタッチ、バットや弓の入り方、角度、速度を微妙に変化させることで、打球は奇跡的に狙ったところへ命中し、音に極めてダイナミックで繊細な違いを産む。

意識レベルを鍛える。集中して鍛錬する。残念ながら一流選手もただゆっくりした球を打つ練習を真似る馬鹿しかいないそうだ。

この基礎を大切にする文化レベルがクラシックバイオリンには結構常識的に生きている。落合選手が語るのは、現代の球界にはそういう基礎ができる人がいないという衝撃的であり、さもありなんという事実である。職業音楽家ならどんな貧乏人でも常識のレベルであるが、高給とりで人気のある野球では伝説の人として不世出の人なのである。

野球という文化そのものがアメリカの最近の文化であり、歴史が浅い人気スポーツにすぎないのである。

さて、われわれが、日常生活を送っていて野球文化という浅いものに毒されていることが自覚できているかどうか、である。

現代の野球選手はみんなグローブをしてバットを握る。この時点でもうはっきりと古典文化に劣ることがわかる。古典文化においては手工品が絶対的な価値を持ち、天然素材に対する職人のレベルというものが、なによりもモノをいう。

体格が良くて、動体視力が良くて、運動神経が良いだけで、そこそこの成績を出せば一流選手であるというスポーツ界。オリンピックでもそのたぐいの選手がたくさんいる。

生まれつきの才能というものに頼って成績を出して、二流に甘んじているだけである。

新製品が出れば過去の製品より優れているというムードに流される人たちがほとんどであるが、少し以前の日本人たちはみな基本的な押えどころを押さえた製品こそが優れた製品であり、新製品に目移りすることは愚かな浪費にしかならないことをよく知っていた。

新製品、新商品は古典的手工品には絶対に叶わないし、最新科学によるスポーツ文化は古典文化による鍛練の成果にはとうてい及ばない。そもそも罵倒や暴力が当たり前のものは文化と呼ぶに値しない。

近代西洋の精神医学や心理学といった研究を駆使しても、釈迦の悟りや教えを超えることは絶対に不可能である。人間は自分の心ひとつ思い通りにできない。

精神や魂の鍛練というのは一朝一夕にはできない。環境に左右されながら毎日地道に継続しなければならない。

道具を交換することは簡単だが、道具を見極めることは熟練者でなければできない。

結局基礎の積み重ねや積み上げをまちがいなくできるかどうか、という一点に絞って毎日精進することが人生の充実と満足と幸福度を最大化し、そのことは少し考えると自明だが、忙しくて毎日用件を消化するだけとなり、人間自らが消耗品に成り下がって、世間的な幸福に踊らされて人生を終えることになる。人類はおめでたい馬鹿。

私には野蛮な野球スポーツ文化は相性が悪く、非暴力の音楽文化を嗜好しているが、音楽文化も完璧な文化とはとても言い難い。

古典的な技能獲得の筋道を伝授するクラシック音楽文化の優越性、利点は間違いなく存在しているが、雅楽も含めて世界が狭すぎる。一般のレベルを上げる文化であってこそ文化とか公益事業として成立することを業界人も日本政府も再認識しなければならない。

古典文化の源泉は仏教であり、その正統たる日蓮正宗を無視して否定して日本人の野生化がどんどん進行している現状は、日本文化の自滅そのものであり、アメリカナイズをすすめたイチロー選手の罪深さは破壊的破滅的なものであった。

最優秀の科学者たちが新兵器を開発し続け、最新の麻薬を開発し続け、あふれかえる貧困を放置させている。人間の幸福のために科学を用いれば、戦乱も麻薬も貧困もなくなるが、実際はその真逆になっているから、日本人は日蓮正宗をやる以外には選択肢がない。

アインシュタインは真実の愚か者であったから原爆を実用化して名前を遺した。

ヒトラーは真実の狂人であったから少数派を虐殺して名前を遺した。

日蓮は真実の仏であったから全人類に対して修行を実用化して日蓮正宗を遺した。

今も昔も馬鹿は馬鹿でありながら、ずる賢く生きようとするものであり、馬鹿が賢くなる方法は残念ながら他にはない。断言する。

馬鹿につける薬は日蓮正宗以外にはない。

真実として正しい修行をしなければ馬鹿は治らない。

なにをどれだけ頑張っても、どれだけ社会的な成功をしても、馬鹿は治らない。

二流(今だけの一流)や馬鹿は才能と現状に甘んじ、歴史的に正しい一流と賢明な人は修行して成果を充実させていく。

馬鹿は変化と収益を追い求め、賢者は修行に邁進する。

高校卒業程度の知能や知識があるかもしくは社会人として5年以上の経験がある方に対しては、私ははっきりと馬鹿は馬鹿だと断言してもまったく問題ないと考えている。

相手のためにはぜひ教えてあげなければ失礼に当たると思っている。きちんと言っておけばよかったと後悔したくないのだ。

21世紀令和時代の人類に送る日蓮正宗教義のいち個人的解釈である。