よくどの宗派だから、どの宗教だから幸福だの賢いだの言うが嘘デタラメだ。
日蓮宗が八風におかされぬを賢人という教えを言うが、実際上百万遍お題目を唱えても馬鹿は馬鹿のまま。
お金があって、広い家があるから幸福だと言えないくらい誰でもわかる。
資産家というほどでもなくても、伝統的な仏教をやっていたり、古典が身に付いている日本人は、明治以降も宗派を超えて縁組みしてきた。
仏教の教えが、相互に入り乱れて滅茶苦茶になるかと言えば、そこが賢人かどうかの試験になる。
資産を維持しつつ、百も千もある教えを、どの状況でどう使えるかがわかる人はアタマがよい。
日蓮正宗ほどの法門通の僧侶でもそれがわからないと馬鹿だということが言える。
酒を飲んで捕まるようなもので、日蓮は酒をお召しになったという御法門だと開き直るような情けない僧侶もいる。
稼げばアタマがよいという近代の可哀想な人たちは、古典をまったく知らない。
イエスも日蓮もそこまで人間が浅ましい馬鹿だからこそ、教えを丁寧に説いたのに、その心を殺す神父牧師僧侶が満ち溢れていて、そんなことには慣れっこで賢明に幸福になれるレベルはアタマがよい。
聖職者なんてオッサンじいさんでもあるわけで、下らないことに腹を立てるレベルの馬鹿まで神仏は救えない。
もちろん信徒を馬鹿にして檀家離れを招くのも馬鹿である。
人間を動物から引き上げるものが何か?
霊性、精霊、宇宙遍満の真理なんて、現代においては、誰でも悟れる。
ただ古典と自然現象に暗い現代人が増えているから、ちんぷんかんぷんな人たちも増えてよくわからないのだ。
精緻な西洋クラシック音楽が素晴らしいのは、そこを相当補えるからだ。
聖書や仏典を学ぶのは教養としても機会はほぼ等しくあり、生の良質なクラシック音楽はなかなか機会がない。
外界と内面の深く広い世界は極めると一致し、そのことが極端な難聴でなければ誰でもわかるのがクラシック音楽。
世界を広げるか或は掘り下げ開発する必要がある人たちはたくさんいるから、鑑賞や演奏のお勉強はぜひともおすすめしたい。
無限の流転の宇宙とわが魂の交響を重ねて経験していただきたい。
永遠の魂を感じていただきたい。
ただの美しい音ではない。