FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

日本と宗教のむずかしい関係について(1)敗戦による文化大衆化と日本の伝統文化の拮抗のなかで 宗教や音楽など

 

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法隆寺の五重の塔


日本には当然すぎるが神道という伝統的宗教がある。よくあるあの鳥居のたっている神社が神道の一派だ。神道は中国大陸や半島からまず先に伝来するが、これは歴史の後先から言って先に日本列島に到達したようである。神殿を設けたり古墳を建設したり政治がらみの第一段階だと言ってよい。

 政治とは言っても古代中国の政治を基としているから、結構野蛮で前近代的なものであり、奴隷制度が正統な政治システムとして成立していたようだ。神道はいかに労働者を食わせて建築を立派にするかという権威を強くすることに政治の基を置いた。今もそうであるが、中国や朝鮮との交易が重要だったからである。

 そこに苦渋の民、貧困の食べるだけの民が希求していたかのように、仏教が伝来する。聖徳太子の時代をはさんで神社神道派と仏教派が内戦状態に陥り、結果は仏教側が勝利する。あまりに勝れた教えを説いていたために、その戦闘にも力が入ったのであろう。

 さて、そこから仏教文化が続いて天平白鳳文化を経て平安期にも仏教文化は皇室に受け継がれた。そこでは非常に高い文化性が保たれ、日本の貧民たちが多少なりともマシな生活を送れるような知恵を生み出した。

 しかし時代が仏教で予言された末法に突入すると、そのような政治統治上の知恵がなんら役に立たなくなってくる。日蓮の登場である。

 今の日本の政治状況を考える上でこの日蓮という一般的には僧侶であるが、この超有名な僧侶がもっとも重要な意味合いをもってくる。

 みなさんは、今の主な日本の政党が神社と日蓮だけで成り立っていることを御存知だろうか?うすうす気が付いているだろうが、神社と日蓮派だけで自民公明民主が成立している。他は極小政党として議席数が伸び悩んでいる。

 先に大陸から渡来した神社がまず勢力を伸ばしていたところに仏教が最大派閥となり、さらに末法にはいって日蓮派が誕生してそこから民主党系と公明党が誕生しているのだ。神社だけでよいという考え方が自民党であって、これは歴史を無視した仏教否定と紙一重である。仏教各派が自民党を支持しているが、仏教より神道を優先している自己否定の仏教各派である。しかしそれはそれで完成度が高い。

 そして民主党系と公明党は同じ日蓮派であって、犬猿の仲である。日蓮派の親分は日蓮正宗で、そこから分派した宗教がたくさんあって、その集団が民主党であり、別に独立したのが公明党。これは考え方がとてもよく似ているわけだ。かなり障害者差別が激しいのも同じだし、なにもかも数と金の力だと割り切っているのも同じであり、社会福祉社会保障にあまり熱心ではないこともある。

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日蓮派の親玉日蓮正宗

 一応お断りしておかねばならないが、こういうと完成度の高い自民党支持者かと思われるかもしれないが、私は無党派であるので、特段にどの政党を支持するということはない。実力ある科学者たちと同様、政治がいずれかの政党に偏らないように実行実現されていくことが最も日本国繁栄の確実な方途であると信じているからである。

 むずかしいのはキリスト教と日本人の関係ではなかろうか。敗戦もあったし、あきらかにキリスト教国よりも劣る軍事政治的なパフォーマンスというのが実際にあったから、キリスト教文明をいかに日本の繁栄に結び付けていくことができるのかという命題がほんとうの難しさではないかと考えているところだ。

 神道日蓮だけでは世界で戦えないという事実認識をした上で、アーメンとか言っておだやかにほのぼのと強い集団になるわけではないので、日本人が全員キリスト教徒になるというのは非常に考えにくいので、これは一体なにを取り入れるべきか、なにをいかに模倣するべきか、考える価値があると思うのは私だけではあるまいと思う。

 すでに自転車やクラシック音楽文化と日本人の関係についてはいくらか記事にしてきたが、もちろん自転車と音楽の輸入と活用について異論はない。しかし、クラシック音楽の普及が断片的部分的なコマーシャルにとどまっているという現状はもったいないと思う。多少オタクの記事になりつつあるが、物事の本質を考える上では、これは欠かせないネタであると考えて記事にしてきている。それぞれのテーマだけではなく、この宗教的な好き嫌いや肌感覚というものが日本人の感性に密接にかかわるので、これはまた機会を作って記事として掘り下げていきたい。最初にむずかしいと断っているので、別の記事に結論が持ち越されても、そこまで非難されるほどのことではないだろう。

 なぜ日本においてクラシック音楽が富裕層とオタクだけのものに終始しており、ひろく国民の文化として根付かなかったのだろうか?キリスト教文化であると思い込んではいないだろうか?神社と真言宗浄土真宗禅宗の富裕層は欧米のクラシックを楽しみ巨額の投資をしながら嗜み、日蓮派と大部分の庶民はアーメン文化には一円もかけたくないと財布のひもを固く閉じる。両極端な消費行動パターンは日本という文化が非常に両極端な文化性を持っていることを示しているようだ。

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釈迦の生まれ変わりとされる宇佐八幡

 いったい本当に同じ日本人だろうかといぶかしく思うほどである。その信念と信念のぶつかりあいが、いわゆる文化的ねじれ、地域的ねじれを生み出し、東アジアの文化的膠着状態を完成させているから、宗教的なむずかしさは、はたして東アジアの魅力になるのか、特性が活力になっているのか、というポジティブな視点で解明されるべきだろうと思う次第である。