戦後、日本国憲法が制定されて、あらゆる身分階級がいちおう白紙になり、農地解放がなされてみんな平等な社会がスタートした。
みんな同じ票を持つ対等な有権者になったのだから、そこを起点にすれば、特権階級の存在意義は一気に低下したことは間違いない。
財閥解体も同時になされ、金持ちと政治家は青ざめたわけである。
一時期、共産党が躍進し、創価学会が増殖したのもこの憲法の平等思想が大きい。
それがバブル以降、やっぱり財閥と特権階級が復活してきて、今や完全に与党独裁と改憲派が多数派の議会になった。アホは浮かれて沈んだのだ。
日蓮正宗だけではないが、仏教僧侶というのは、特権階級である。士族や華族との血縁関係を結び、超富裕層とのつながりの中で、表向きは質素な生活で修行するという姿勢を見せる。
敗戦と憲法のおかげで、特権階級は方針転換せざるをえず、一時期は僧侶や政治家を批判するだけで、人気が集まり、週刊誌もマスコミも、学術界も、宗教界もおおはやり。
このせめぎ合いを見ていて、いろいろな主張を聴いていて、なるほど社会の変化がその批判の応酬、利害の対立からきているのだなとよくわかる。
民主主義で選挙をやるのに、多数派をとるのは人気だけではできない。特権階級だけでも足りない。与党側が有利になるが、そもそも与党というのは特権階級にへつらうための集団である。
そしてそういう国民性がまず先にあるから、こうすればこうなるとかデータから対策を立てるとかいう理性は後回しになる。
最大多数の幸福ではなくて、最大多数の不幸こそが実現している。
幸福感についての定義によっては、現在すでに最大多数の幸福が実現していると思う人もいるが、客観的データから見ると、きわめて怪しい。幸福とは言っても見栄っ張りな無理のある幸福である。
典型的なのはカネと心のどちらを優先すると幸福なのかという話だが、バランスが必要なのはあたりまえだ。
特権階級を基準として、国の政治が動いて法律と省令などが決まるから、特権階級の基準こそ最大の力を持っている。
この基準が宗教によって決まっている面もあるが、階級の生活によって決まっているところが、みなさんの苦悩を深めているのではないかと思う。
伝統的な富裕層はまず心構えから入る。
家もカネも立派な職業もあるのだから、それは心こそ大切にしなければ、なんのための資産や地位なのかわからないからである。
庶民はまず生活費、今月の仕事の締めである。
次に、新興宗教がはびこったことで、僧侶たちの修行や知識はひたすら無視されるようになったから、やはりカネが一番になった。
明治憲法の中心は廃仏毀釈であり、仏教を捨ててみんな神道をやれというものだったのと共通した経緯をたどるのは、新興宗教が異口同音に神道に媚びるだけの勢力であり、仏教を踏みつけにすることだったからである。
誰もが勘違いしている錯誤だが、創価学会は仏教ではない。完全な神道による新興宗教である。人権や教育や平和などというキャッチとは真逆の非人道的なナチズムが本性であり、真似事をする維新などの新勢力も生まれてきている。
一般人が特権階級になろうとしている点では同じ公明党と維新であるし、そのために人気を集めるのは確かだろう。
しかしどこまで行っても、成り上がりであるから自民党や立憲民主の歴史的な華族、士族、僧侶、神官というつながりの中で残遺している勢力には頭が上がらない。
庶民的に階級というのが疎ましいのはわかるが、欧州でも階級は完全にリーダーシップを保存しており、世界の枠組みで中国すらその階級を共産党なりに模倣している。
人間には生まれ持った階級がつきまとう。
社会でもそれは同じで、それぞれの階級の誇りを持ちながら、どの階級のリーダーを選ぶべきか考えなければならない。
どんなによい社会になろうと、階級社会に変わりはない。
かわいそうに士業や公務員程度で上級国民だと勘違いしたり、親に売り飛ばされたアイドルを崇拝したり、資産や伝統はあっても残虐非道な神官僧侶にかしずかされたり、それぞれが不幸なのである。
古代から変わらない社会の在り方が、民主化しても変わらない世界を見るとき、われわれは甘い希望を抱くべきではない。
特権階級になろうとする人もいるが、どの階級であっても不幸がつきまとっている。
結局は心が満たされ続ける人間になることが一番の幸福であり、持てることが不幸の原因になり、持たざることや死が幸福の理由にすらなるからである。
幸福はどこかにあるのではなく、資産や階級によるのでもなく、名声や実績によるものでもない。
最優秀の特権階級に学ぶことは大事だが、それは資産とは関係ない。
生活感を学んで健康で文化的になっていく諸条件を踏襲することが確実な近道である。
それは実は、日蓮正宗の寺院に参詣して細かに日常生活について指導を受ける修行の在り方そのものなのである。
特権階級に対する嫉妬や反感だけを基準にする公明党や橋本維新はたまた共産党などをやっていると、絶対に不可能な学習能力であり、盲点になる。
私は生まれつき特権階級の血をひいたので、僧侶たちを見ていて日常生活感がよくわかるし、育ちに庶民的なところが多いので、成り上がり志望の輩の反骨的な反社会性についてもよく見える。
所詮知恵も伝統も仏教も、特権階級がまず極めて保存するという大枠は歴史上不変である。
ただ一事、重大な見落としをしてはならない点が、日蓮が貧乏漁師の家庭の生まれであり、かつ訳ありの漁師で士族の血をひいていたであろうという歴史的推定事実である。
国家を全否定できない人間の性、宿命を知り尽くして立正安国論を中心に特権階級に対しても折伏し続ける(当時は天奏)姿勢は日蓮日興日目の三代目までが顕著である。
そこで階級による主張がまったく違う新興宗教、特権階級に甘すぎる伝統宗教というのが、いかに釈迦・日蓮の教えから乖離したのかというところが、それぞれの職業宗教者たちの自覚にのぼることはない。
したがって広宣流布(仏教による理想社会)は断じてありえない。
僧侶は特権階級でかなりのノウハウは持っているが、庶民や弱者をすぐに抹殺排除するノウハウもまた保存している。
庶民や弱者の生活が成り立つような政治を基本にするのが立正安国論の大前提であることをきれいさっぱり忘却して、他宗攻撃の理屈を並べるのは本末転倒だ。
今の政治・宗教は科学者たちもふくめてみんな道理やデータを無視している。科学的因果関係と現実を見て見ぬふりで、だれも責任をとろうとしない。水を飲ませて死なせる、食事も与えず死なせる、滝にうたれて死んでしまう、最低賃金を払わない、離職するまでいじめる、自殺しても疾患のせいにするなど。
キリストに逆らって浮浪者になり、仏を誹謗して障害者になったなどという因果関係の主張は、政治や医療福祉を否定する暴論である。国を否定して立正安国論は成立しない。
政教分離の役割分担は必要だが、特権階級と庶民弱者の間の議論が成立するように道理とデータを最大限重視するべきだと思う。
ありえない精神論やくだらない感情論を取り上げたジャーナリストや専門家はいらない。
テレビなんてほとんど粗大ごみなのである。