FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

バイオリンの持つ泥臭さか人間が出ているのか

こういう業界の痴話と人間の浅ましさは、いくらでもあってウンザリするのだが、また、である。記事を貼る。

ストラディバリウスめぐり殺人か パラグアイ、独の父娘犠牲
2021/11/11 22:58
国際
米州

南米パラグアイのメディアによると、首都アスンシオン郊外に住むドイツ人考古学者の男性(62)と娘(14)が殺害される事件が起き、パラグアイ検察は11日までに殺人容疑などで知人のドイツ人の男3人を逮捕した。男性の手元にあった最高峰の弦楽器、ストラディバリウスのバイオリンと鑑定書を奪うことが動機だったとしている。

楽家で楽器修理も手掛けていた男性と娘は10月22日、自宅で撃たれて殺害されているのが発見された。男性は拷問された跡もあった。男性はドイツへの旅行の間、男の1人にバイオリンを預けていたとみられる。家宅捜索で4本のバイオリンが見つかった。

ストラディバリウスは、イタリアの弦楽器製作者アントニオ・ストラディバリが17~18世紀に約1000本作ったとされる希少なもので、数億~数十億円で取引されることもある。検察は男らがバイオリンを高値で売るために鑑定書を奪おうとし、2人を殺害したとみている。(共同)

私は比較的安い楽器だが専門家に預けて殺されはしなかったが、楽器をケースごとだましとられた。
この件だけではなく、盗品を買い取って販売する楽器商が世界中に溢れている。
音大でもむかしから楽器の盗難が続いていて事件はなくならない。大学構内の事件は学生か教員らくらいしか容疑者はいない。
パラグアイアスンシオンというのは、ナチスの残党が逃れた土地として有名だ。
メニューインナチスの下で演奏したことを戦後反省したからまだマシだ。
現在のイタリアのクレモナ市(ストラディバリウス工房があった)の興隆もムッソリーニの政策的観光投資を兼ねていた。
音楽の夢や希望と癒しと平和のイメージとは、まったく違う人間の醜さばかりを見せられている。
そんなわけで、私は音楽家を信用しないし、世界の闇と人間の闇を拡げるバイオリンの取扱いには注意が必要だと思っている。
皆さんお調子にのせられませぬよう。

尾崎豊の墓へ寄ってみた

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埼玉県所沢市は東京都との境になっていて、今日久しぶりに都立狭山公園にサイクリングして、目と鼻の先だからようやく寄ってみた。
なんと骨は入っていないらしく、ファンのために遺族が手入れしているのだろう。
寄ってみたと言うが、線香と火を持参して手を合わせてきた。
クラシックの日蓮正宗をやっていても、ロック系やポップス系をやるが、アコースティックギターを使っていたから、中間的な音楽なのだろう。
愛唱した歌を思い出しながら、彼は日蓮正宗の教えや修行ができなかったので、あんな半端なジャンルで人格を崩壊させたのかなと思った。
日蓮正宗はかなり厳格というか融通がきかないエリート思想でもあり、表向きの教義とは違う選民のシステムであり、歌詞からはその厳しさから逃避している姿も散見される。
私の両親が過剰に厳格だったので、いくらか気持ちは理解できるところもあるが、尾崎豊が崩壊していく中で誰一人それを止められなかった宗教であるという事実を信徒は全員一人一人が留意しておかなければならない。
お兄さんは豊の心配をして言動として示したが、暴走を止める力はなかった。
真剣に唱題し、御指南を厳粛に受け止めながら法を弘める行動が大切であり、生きる証しになり、後世にその慈悲心を示すことになる。
どこかでスズメが死に、猫が鳴いたのと同列の人間とは違う、日蓮正宗信徒としての魂魄があの絶叫であり、歌唱でもあった。
私には個性やそれぞれの使命という解釈はできない。
彼は日蓮正宗のしきたりのなかで生き急がされ潰れた可哀想な信徒だったと思う。
いくら充実させたにしても短すぎる生涯だった。
人の幸福に必要なのは、生命の燃焼の方向性の確認作業だ。
みんな自由とか個性とか聞こえはよいが、間違いは修正していかなければならない。
日蓮正宗信徒をやってもそれができない事例があるということを理解するのはとても難しいのだが、寺院や周囲の人間関係がおかしく、しきたりや教えの解釈や修正を間違っていると判断せざるを得ない。
尾崎豊は一面幸福にも見えるが。。。
追善して供養してあげよう。
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心を養生する

f:id:FujiYama:20211031095953j:plain沈みきってから立ち上がる
吐ききってから吸い込む
心臓は収縮してから膨張のサイクル
苦悩を突き抜けて歓喜

誰しも心の元気がなくなるとき、
心が沈んで収縮して苦悩する。

一番底まで沈んで吐ききって収縮させてから立ち上がらないと、なにをやってもまたダメ。

これを皆さんがハードなヨガや運動や仕事勉学などの荒行でごまかしながら消耗していく。

一番跳躍するためには、一番深く膝を折る。
そしてこの深さの位置はみんなそれぞれの違いがある。

心の跳躍のために、膝を折る今のベストポジションが自然に設定される方法がある。

日蓮正宗の寺院へ行って、題目を唱えるだけである。
毎日コツコツちょっとしたジャンプをして、苦悩していたことが案外大したことないと感じるようになる。
信徒になると遺産がもらえなくなるとか、毎月金銭の負担があるとか、それぞれの難しい事情にあわせた立場による題目の唱えかたは別々だ。
究極は家でやると月におしきみと線香代だけで1000円、寺院だけでやれば2000円ですむ。

同じ人生だから、頑張って苦悩するばかりでは、損をする。
楽しみを深く高くして、悲しみを喜びにかえて、心に栄養をあげ続けると、まったく別の人生になっていく。

スポンジがだんだんダメになるのと、形状記憶みたいに回復し続けるのの違いにも似ている。
がんばりがきくあいだにもうまくいっているあいだにも心は毎日悲鳴をあげている。
まったく曇らない心はない。
いつも心に太陽を昇らせ、毎日リセットして日々再出発を。

ビタミン論争から見えてくるもの

f:id:FujiYama:20211107235630j:plainビタミンC論争というのをご存知だろうか?
ライナス.ポーリング博士という科学者がビタミンCの人体へのよい影響についてデータをとって効果を立証したのだが、業界でめったうちにされてきて、先日もまだ日本人ジャーナリストから攻撃されているという歴史ある論争である。博士は1901年生まれ 1994年8月19日没で二十世紀に活躍したアメリカ合衆国量子化学者、生化学者。彼自身は結晶学者、分子生物学者、医療研究者とも自称していた。
ノーベル賞を二つ受賞した優秀で稀有な人だから、人類に対する貢献が大きい。
彼はガンに対する効果や不治難病の統合失調症に対する各種ビタミンの効果なども研究しており、人類や人間に対する信頼と尊敬があったのだとわかる。
きちんとした学者がきちんとした研究をしてきちんと評価されてきて、それは困るという人たちが相当存在している。
死後27年してなお日本人が攻撃する。
先日斜め読みしたその論評はあまりにも情けないお粗末なものだった。彼の功績を矮小化するためとはいえ、なんという馬鹿らしさかと呆れた。
なんとビタミンCは風邪の予防に効果がないといい、われわれの健康にビタミンCは無関係だと言うのである。見識のないただのジャーナリストが。
そして彼に反論した論文がたくさんあるから、彼は間違った科学者だという趣旨である。
物の見方考え方の問題や立場上の利害ではなくて、われわれの健康に有益なのか、ガンや精神病に効くのかどうかが最も重要であり、相当の効果は立証済みなのである。
高度医療、高額医療、怪しいセラピー、高額な抗うつ剤抗がん剤などの収益のためなら、なんでもやりますという自称ジャーナリストやエセ学者、企業御用学者がたくさんいて論文にカネと時間をつぎ込んでいる。
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なぜこんな話を記事にするかというと、これは科学や健康の話に見えて、実は宗教紛争或いは宗教論争の話でもあり、だれもが騙されやすい話だからである。
実は新興宗教創価学会の池田とポーリングは親交があった。
池田は目敏く集中砲火を浴びるポーリングにすり寄ってうまく取り入っている。
博士の功績をある程度理解して評価しているのだが、問題は池田がポーリングの功績を自分の功績にして、インチキ宗教を拡大したことであり、同じ手法で利用された学者は多く、学者や政治家の遺族が苦情を訴えているのが実情で、騙されたことにすら気が付かない人も多い。
なぜそんな新興宗教に騙され、なぜ創価ごときが博士に目を付けたのか?
人類と人間に有益なビタミンCと南無妙法蓮華経が酷似した性質をもっていたからである。
効果と価値を考えて実例を並べてみると、企業が儲からないから闇に葬るべきだという力が働くのはほぼ同じなのである。
但し書きとしては、創価は唱える題目の力だけに頼っており薬効は減衰、現在はその薬害のほうが目立っているが、かつて日蓮正宗時代はビタミンCやマルチビタミンの効果と同格或いはそれ以上だった。現在もなお日蓮正宗の薬効は著しい。
結局、科学も宗教も同じ人間がやるもので、われわれに有益なもの(研究や本尊)は、マスコミから意図的に消され、業界で総スカンを食らい、われわれには副作用が当たり前の薬剤が高額で販売され、自費の高額な健康商品やスポーツメディアが流通宣伝されるのみとなっている。
科学と宗教はどちらも真面目なのか本物なのか、まず疑ってかかるがよい。医学ですら。
ジャーナリズム、マスコミ、コマーシャル、新興宗教、株価だけをみている官邸の本質は、いかにたくさんの人間を公然と始末できるか?それだけである。
対する本物のポーリング博士は核兵器に反対してノーベル平和賞を受賞した。
こんなに真実がわかりやすい話題もないだろうと思う。
ノーベル賞はカネでは買えないし、われわれはビタミンを簡単に買うことができ、カネがあるだけでは日蓮正宗はできないのである。
不偏不党と自由は最大限に幸福を追求するための人間の知恵であり精神かも知れない。

サイレントナイトの落とし込み クラシックで言えばそんなに古くない

f:id:FujiYama:20211107074508j:plain教会やYouTubeなどでお馴染みのきよしこの夜。歌詞は下に貼ってあります。
キリストの誕生を祝った歌でありながら、この地球はキリスト文明が支配するのだという宣言にもなっている。ちょうど君が代で皇統が永遠に続くという歌詞とイメージがかぶる。どちらもこの世界は我が物である。
キリスト教会では礼拝に禅の要素が強い。心を鎮めて神の愛を受けるという面がある。
この心を鎮めるという儀式や習慣は、ちょうどサイレントナイトの心境と重なる。
尊い子どもが母に抱かれて安心している心境からは、基本的に危険思想は生まれない。
母が子どもを尊く思っている限りにおいて、平和思想が生まれる。
子どもよりお金という心が強くなったぶんだけ、侵略、殺戮、支配しなければならない。
宗教はどこまでも道具である。
子どもを犠牲にしてでも浪費しようという決意をする夜。愛を殺し心を殺して我が子に。
戦慄のサイレントナイト。
堕落したマリアがテロリストを養成する。
教会と音楽は美しい世界を描くが、われわれの心は宗教というツールをきちんと選んで使いこなせているだろうか?
汚泥のその夜。きよしこの夜。
現実の人間の失敗例が多すぎて、宗教も信じられないし、お金も信じられないし、科学も悪用され、自己の内面をくん発しなければもたない。他人事でありながら、他人の不幸が降りかかってくる。
マリア、聖母が美しいことになっているが、あまりに稀な人だと参考にならず、逆にありふれた浪費家のおばちゃんも要らない。

オーストリアの教会で神父が1816年に作詞し、1818年初演という時代からは、まだまだ残虐な民間風俗が広くのこっていたことと、神父の宣教の野心が色濃く認められることが特徴的。汚泥の現実があればこその静けさ、平和のサイレントナイトでもある。
両極端に走らないちょうどよい心の損益分岐点を求めて十字架に跪いて、欧米型文化がほどほどの成果を収めているのも事実であり、悲惨な汚泥とチャイナの汚泥が飛び散るのも事実である。やるべき戦闘に勝利し、この世界を平和と幸福で満たすことに微塵も迷いは要らない。
仏教でも戦乱や戦闘の汚泥は常識である。
すべては平和(安穏)のため。
美しい世界のため。

Silent night! Holy night!
All is calm, all is bright
Round yon virgin mother and child!
Holy infant, so tender and mild,
Sleep in heavenly peace!
Sleep in heavenly peace!

静かな夜 聖なる夜
すべてが穏やかで輝き
純潔なる聖母と御子を包む
聖なる幼な子 優しく穏やか
天上の静けさの中で眠る

Silent night! Holy night!
Shepherds quake at the sight!
Glories stream from heaven afar,
Heavenly hosts sing Alleluia!
Christ the Saviour is born!
Christ the Saviour is born!

静かな夜 聖なる夜
羊飼いらは その光景に震える
神の栄光が天界から降り注ぎ
天の使いがハレルヤと賛歌を捧げる
救い主キリストは降誕せり

Silent night! Holy night!
Son of God, love's pure light
Radiant beams from thy holy face
With the dawn of redeeming grace,
Jesus, Lord, at thy birth!
Jesus, Lord, at thy birth!

静かな夜 聖なる夜
神の子 純粋なる愛の光
聖なる尊顔は光あふれ
救いの恵みの兆しなり
わが主イエス 降誕せり

バイオリンの音程の不思議

f:id:FujiYama:20211028003635j:plain2時間も弾いているうちにようやく音程が定まってくるなどというとんでもない時期があったことは本当に忌まわしい記憶。
幼少期に厳しく母から音程を注意されてほどほどの正確な音程になるのだが、つまり合奏しても綺麗にハモるので、そのまま行けば問題ない。ピアノで音とりする習慣は実家を追い出されてから失くなった。
しばらくするともはや音程はわからない。
二十歳頃、初心者と一緒に合わせてみてから少し甘くなっていたが、それ以上に狂いどおし。
音階練習が狂っていたのだから手のほどこしようもない。
ある時期セブシックなどやってみて左手を壊す。
もはや練習量とピアノでの音とりと総動員であわせていくもさっぱり。
ピアノはそもそも平均律
そんなにあわせても仕方がない。
音階はチューナーでとりあえずあわせても結局三度音階にぶち当たる。
こればっかりは耳が大切。
チューナーで二音とれない。
気持ち悪いウワンウワンというウネリが。
逆に言えば気持ちいいところを探して覚えるだけ。
これが少しでもできればよいが、さっぱりはまらない時期があり、ガット弦に戻してみてから成功確率は格段に上がった。しかし完璧でなければ使えない。
恐れ多きハイフェッツの録音は本当に美しい重音で聞き惚れる。
曲で自然に出てくる美しい音程こそホントウの音程だ。
しかし、かなり詰めた音階練習の上に、あの美しい演奏が成立していることに気が付いたのはここ10年ほどの最近だ。
中学の頃は器用にセンテンスを越えさえすればよい程度に考えていた。実際それでも国際音楽コンクールに入る人はいる。ま、それで先生に桐朋芸大は厳しいから練習方法をかえなさいと言われたのだが。
指先の繊細な感覚と集中した耳で、きちんと音階練習していると、演奏の質は確実に上がる。
演奏は訓練というか習慣の発露だから、きちんとした音程にはなんの不思議もない。
それが不思議だなと思うのは、自分の生涯のなかで度々音程の基準が替わったからだろう。
ピアノ、純正五度、純正弦楽合奏、合奏もどき、音叉、ピアノ、純正律、ピアノ、そして現在純正律というおおまかな流れ。
平均律オンリーとポップスは昔からしんどい。
ピアノ伴奏がやっとこさである。
弦楽合奏も最近はやらないので、無伴奏純正律平均律ピアノとのすりあわせの2パターンがほとんどである。
どのみち耳と指先が柔軟でないとうまくいかないということだ。
バイオリンは正しい音程の時は響きかたが実に豊かで薫る。
この両手にも伝わってくる快感は、ほぼ誰にでも伝わるようで、ひとつのバイオリン教とでもいう宗教の会合みたいだなと思う。
バイオリン特有の法悦を分かち合う幸福というか不思議な感覚と経験だ。
気を付けないと現を抜かして現実を見失うほどだが。
誰もがリラックスした練習ができて集中する習慣がつくように願う。
反面、歌謡曲にイラッとくると今度は過敏症みたいになって困る。
生命のあるところ海水あり、哺乳類のいるところだいたい空気あり、音波あり、これは逃げられないので、多少こだわってみて、肉声と弦楽器の不思議な世界を彷徨っている。
肉声と弦楽器のハーモニーが地球上で一番ワクワクする世界。破壊力ある歌唱力より平凡で凡庸な歌手のオペラのほうが、私は音楽を楽しむには良いと思う。
究極は日蓮正宗の大御本尊の霊前でオーケストラ伴奏をつけて読経唱題があれば、一体どんな世界になるだろうと想像して、貧乏宗教の信徒を全員集合させたとしてもあり得ないなとクラシック音楽を順当に楽しむことにした。
不思議と奇跡は日蓮正宗と別個無関係に存在しているからこそ不思議であり奇跡であるとも言える。
妙音の音程がぴったりで、末寺ではバラバラのカオス音程。プロバイオリニストの音程がぴったりで、アマチュアバイオリニストはバラバラのカオス音程。
曲を掴んでいる場合に聴き手は曲を美しいと感じる。曲を掴んでいる前提は調性を掴んでいる。心地よさはその音程の完全さから来るし、わずかにずれると不快を感じる。昂らせる音程の取り方とか、抑制をきかせる音程とか、そこまで含めた曲の掴みは、好きこそ物の上手なれ。誰でも心がけひとつの純粋な想いからだなと思う。
時にはピアノがうらやましいが、音を造れる範囲が広いのもまた肉声とバイオリン(弦楽器)の魅力だ。
バイオリンを発明して五度の弦楽器にした人は天才だ。
当時からのプレーンガット弦は今のバイオリンで使うのは耐性と張力が弱すぎて多少無理があるが、巻線ガットで独特の音程の雰囲気は味わえる。中世ヨーロッパとか元帝国とかの時代の空気感でもあり関ヶ原の合戦の頃より昔の誰かの鼻歌と響きあう感じには、なんともいえない不思議なロマンを感じる。
もしかしたらミミナシホウイチの琵琶法師のように霊魂と会話しているのではないかと思う。
仏教と日蓮の教えから推測するに、精霊が喜んだり安らいだりしている。
演奏によってはレクイエムで霊がさらに苦しくなることもあるだろう。
音程は一応は3桁のヘルツであらわすことができるが、それと別の音程があって、それを探究しているとどうしてもガット弦から離れることができない。
利便性をはるかに越えた音楽の世界を大切にしている人たちがまだまだ地球上には存在しているのだ。
皆さんが求める音楽はつまりソフトな空気感だと思う。その空気感と音程が一致するのが妙であり不思議だと思う。

中年はエリートになろうとしない 世代を問わず逃げるが勝ち

f:id:FujiYama:20211105075621j:plain幼児教育の段階では、もしかしたらウチの子どもも才能があるかもしれないと思い、子どももどこまでも伸びようとする。
エリートを目指すのがある意味自然だと思う。
教育費がなければ安価なスポーツや習い事で。
究極は王室を越えて出家させることかも知れない。

さて、中年になってなにかと生活に追われる身となり、今更なにを目指して頑張ろうという気にはならない。
いくらになるから頑張ろうという下衆な商魂なら誰でもあるのだが、やはり高尚なとか文化的なとかの次元のために努力するのは至難である。
分かりきったことで、精神性というのは日常のあらわれ、不断の心掛けだ。

エリートには専門性の高さと総合力が求められるから、それは中年が頑張ってどうにかなる範囲ではない。
若い時に手にした知識や技能をメンテしているのがエリートの中年期である。
中年が身に付けることができるのは、それほどの量にはなりにくい。
積み上げから出てくる成果以外にはなく、積み上げることができる量は少ない。
世間のいうエリートでなくても職業エリートはたくさんいる。

目指さないのは自然。なろうとしないというより、なることができない。
若い時に努力できた人間は幸福であり、ただ忍耐を強いられた人間は不幸。
そして中年以降に納税も寄付も積み上げを期待されるのは同じ。
かたや順調な職業キャリアの円熟、かたや面倒なこだわりのあるアマチュアというのは天地雲泥。
エリート以外は人間ではないという基準や安定収入がなければ職業でないとか、一般のさまざまに排除の根拠になる偏見みたいなものを乗りこえてできることは、成り行き上限界ができてしまう。
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私の場合、エリートと質の高いところでかぶる趣味嗜好のレベルを基準にして、日々の生活の中でバイオリンや音楽を楽しんでいけると素晴らしい人生になっていくと感じる。
両親や日蓮正宗の基準は、残虐な差別と排除の基準であり、生来のキリスト教浄土真宗やスズキメソッドのコミュニティのほうが馴染むのは、いわゆる三つ子の魂百までなのである。
二十歳くらいから努力しても絶対に無理な感性の超克のための工夫や努力をしばらくやってみて、やはり不可能だとわかった。
弓の持ち方も結局変えることはできなかった。
あとから覚えたつもりの曲も、なんのことはないキリスト教浄土真宗の感性で覚えただけ。
日蓮正宗の南無妙法蓮華経の感覚は劇薬であり、どこまでも非日常な特効薬の位置に落ち着いた。

考え方を変えて、思考回路を組み換えることはできるが、無意識にとる行動のレベルで本番やレッスンは演奏するから、演奏そのものはキリスト教浄土真宗の合作の感性によっている。
中年にとってのバイオリンには例えばそんな複雑な事情も絡んでいる。
参考までに南無妙法蓮華経の薬効は、1精進させる2集中させる3経費を惜しまずかけさせる4感性を瑞々しくする5資源の効果的投下の知恵がわく6自分を時空間で俯瞰するなど。
ちょっと思い付いた薬効だが、かなり大きい。

理想的な練習を10年間毎日続けるなんて不可能だと思って言い訳をするつもりで書き始めたが、まあ誰も期待していないものを、ひそかにシメシメと爪をとぐわけで、勝ちパターン以外はやりたくなく、むしろできはしないという魂胆見え見えでもある。
心の傷を癒すというのは、実際ほんとうに難しい事業だと言える。

若者には、メンタル不調だけは留意して、忍耐を強いられていると感じたら、とにかく逃げるようにおすすめします。
貧乏くじをひかずに、むだな忍耐を回避して、実りある人生を。

宝樹多華果。衆生所遊楽。諸天撃天皷。常作衆伎楽。雨曼陀羅華。
(妙法蓮華経 如来寿量品より)