FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

中年はエリートになろうとしない 世代を問わず逃げるが勝ち

f:id:FujiYama:20211105075621j:plain幼児教育の段階では、もしかしたらウチの子どもも才能があるかもしれないと思い、子どももどこまでも伸びようとする。
エリートを目指すのがある意味自然だと思う。
教育費がなければ安価なスポーツや習い事で。
究極は王室を越えて出家させることかも知れない。

さて、中年になってなにかと生活に追われる身となり、今更なにを目指して頑張ろうという気にはならない。
いくらになるから頑張ろうという下衆な商魂なら誰でもあるのだが、やはり高尚なとか文化的なとかの次元のために努力するのは至難である。
分かりきったことで、精神性というのは日常のあらわれ、不断の心掛けだ。

エリートには専門性の高さと総合力が求められるから、それは中年が頑張ってどうにかなる範囲ではない。
若い時に手にした知識や技能をメンテしているのがエリートの中年期である。
中年が身に付けることができるのは、それほどの量にはなりにくい。
積み上げから出てくる成果以外にはなく、積み上げることができる量は少ない。
世間のいうエリートでなくても職業エリートはたくさんいる。

目指さないのは自然。なろうとしないというより、なることができない。
若い時に努力できた人間は幸福であり、ただ忍耐を強いられた人間は不幸。
そして中年以降に納税も寄付も積み上げを期待されるのは同じ。
かたや順調な職業キャリアの円熟、かたや面倒なこだわりのあるアマチュアというのは天地雲泥。
エリート以外は人間ではないという基準や安定収入がなければ職業でないとか、一般のさまざまに排除の根拠になる偏見みたいなものを乗りこえてできることは、成り行き上限界ができてしまう。
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私の場合、エリートと質の高いところでかぶる趣味嗜好のレベルを基準にして、日々の生活の中でバイオリンや音楽を楽しんでいけると素晴らしい人生になっていくと感じる。
両親や日蓮正宗の基準は、残虐な差別と排除の基準であり、生来のキリスト教浄土真宗やスズキメソッドのコミュニティのほうが馴染むのは、いわゆる三つ子の魂百までなのである。
二十歳くらいから努力しても絶対に無理な感性の超克のための工夫や努力をしばらくやってみて、やはり不可能だとわかった。
弓の持ち方も結局変えることはできなかった。
あとから覚えたつもりの曲も、なんのことはないキリスト教浄土真宗の感性で覚えただけ。
日蓮正宗の南無妙法蓮華経の感覚は劇薬であり、どこまでも非日常な特効薬の位置に落ち着いた。

考え方を変えて、思考回路を組み換えることはできるが、無意識にとる行動のレベルで本番やレッスンは演奏するから、演奏そのものはキリスト教浄土真宗の合作の感性によっている。
中年にとってのバイオリンには例えばそんな複雑な事情も絡んでいる。
参考までに南無妙法蓮華経の薬効は、1精進させる2集中させる3経費を惜しまずかけさせる4感性を瑞々しくする5資源の効果的投下の知恵がわく6自分を時空間で俯瞰するなど。
ちょっと思い付いた薬効だが、かなり大きい。

理想的な練習を10年間毎日続けるなんて不可能だと思って言い訳をするつもりで書き始めたが、まあ誰も期待していないものを、ひそかにシメシメと爪をとぐわけで、勝ちパターン以外はやりたくなく、むしろできはしないという魂胆見え見えでもある。
心の傷を癒すというのは、実際ほんとうに難しい事業だと言える。

若者には、メンタル不調だけは留意して、忍耐を強いられていると感じたら、とにかく逃げるようにおすすめします。
貧乏くじをひかずに、むだな忍耐を回避して、実りある人生を。

宝樹多華果。衆生所遊楽。諸天撃天皷。常作衆伎楽。雨曼陀羅華。
(妙法蓮華経 如来寿量品より)