私の拙いブログでは強烈に官僚やエリートを非難批判している。
それらは自分が一歩間違えると同じようなことをしていたかもしれないという半分自省や自己批判的な面もあるが、決して嫉妬や劣等感からのいたずらな批判とは全く異なる。
官僚から転身して様々な職業で発信している情報が氾濫しているが、それらも参考にしながら、どうしても旧ソ連と同じように国を亡ぼす習性があることを知っておく必要がある。官僚主義は旧ソ連の昔話ではなくてアジア史の課題そのものである。
個人として行動できるのはごく一部の富裕層と上級試験合格者だけで、世界中そういう階級制度の残遺している国家もまだあるが、そういうところで決して国民生活は豊かではないし、機会均等や自由度がないことは残念なことだ。
官僚の規範と国民の規範が混同されるだけでなく、皇室と国民の宗教が混同されて、つまり指導的知識階層と一般人が同じように私利私欲に走っていることは大変な損失を生んでいる。
法律が新しくできるたびにその傾向が深まっていて深刻な状況にあることを国民はあいまいに何となく受け止めている。
政教一致であり、政治の責任放棄であり、犠牲者は弱い順になっている。
弱肉強食のアジアにすぎない。
日本人が先進国の価値観を重視するならば、政府行政庁に対する責任追及はあまりにも重要だ。行政監視の第三者機関を設置することがあまりに少なく、かつ設置しても機能することはまれである。
行政公定力の強力さからすれば司法審査だけではとても間に合わない。
現状、その役割を一定程度都道府県機関が担っているので辛うじてというところだが、近年は維新グローバリズムで行政監視をゼロにする流れすら形成されてきており、事態は最悪の方向へ向かっている。
内閣の独裁体制で司法や行政審査を一切なくしてしまう戒厳令下状態を理想とする規範が日本人の低劣な社会規範である。
まずその問題性をみなさんが知ることからで、そのうえで官僚やエリートがいかに我儘で独善的な性質を持っているかを知る必要がある。
上級試験合格者というのはすでに特権階級として国民から搾取する立場であり、生命財産を搾取できる資格試験所持者である。
国民のために働くほうが奇特であり、そんなこと期待するほうが間違っているのだが、日本人の多くはなぜか幻想に生きている。
エリートは誰からも何も言われたくないし、一般の国民も好き放題したいのだから、どうしてエリートが一般国民のために何か貢献すると考えられるのか私にはまったくわからない。
成績を稼ぐことが得意な人間が人のためになることをわかるはずもない。
人のためになることを研究した人間でなければ、そもそも政策を正しく策定できるはずがない。
そもそも試験問題に問題がある。
いかに合法的に国民を絞め殺すかという悪知恵を得るための国家試験ばかりだ。
宗教政治指導者がそういう知識の使い方を極めており、官僚がその優秀なプログラマーなのだ。
どれだけ国民が煮え湯を飲まされ無駄死にしてもそれは成績としてむしろ出世できる。
民主主義もロシアのように現在は主要4党で動いている。自民公明維新立憲という選択肢しかマスコミにのぼらない。
どの政党に投票しても結果が同じになるようになっている。
偏向したグローバリズム系官僚の悪だくみ実現のための子分でしかない。
外交通商的な外面はよいのだが、日本人に対しては残虐非道である。
バランスの取れた政策立案のためには、上級試験合格者では難しい面がある。
田中角栄には悪いところはあったが、全体のバランスという面では粗目でもそれなりに評価されるところがあった。
まず官僚に適切な指示が出せる大臣副大臣を任命できる総理大臣でなければ話にならず、それだけの人材は主要4党には見当たらないようだ。
数年前多くのエリートの感覚について当ブログですでに書いていた。当人たちは認めたくないし自覚していないことも多いが、一つの見方として参考にして欲しい。断っておきたいが、官僚への個人攻撃はしてはならないし、その都度確認を通して対話していただきたい。