私が14歳の頃、15歳に近かったかと思うがグリュミオーのCDをはじめて手にとり、録音を耳にして感動した。
スズキ・メソードの3巻以降が豊田先生の録音とは当時ようやく知ったくらいで、全部鈴木鎮一先生の録音だと勘違いしていた。
その豊田先生の先生だということは、さらにずっと後になって知った。
とにかく、15歳以降今もって同じだが、その豊かで気品あふれる演奏に魅せられてきた。
しかもその頃、由緒ある地方オーケストラで自宅近くまて送って下さった親切なお医者様からオイドクサ弦を薦められて以降数十年、オイドクサ弦を使ってきた。近年はたくさん試しているが、今あるストックのオリーブがなくなれば、すでにストックしてあるオイドクサに戻すつもりだ。
このブログで様々に書いてきたが、人と人の丁寧で緻密な触れ合い、敬意はあらゆる人間に対するものでなければならない。
動物や障害者高齢者はたまた女性児童虐待の犠牲者に最大限のケアを常識的感性としてあたりまえに持っていることが、日欧の決定的主流の違いである。
表面的社交辞令、表面的態度とはまったく異なる誠実な心と献身的な行動を伴う敬意である。
カルト信者のキズすら舐めるほどの愛である。
ガルネリやストラドにオイドクサを張れば良いのでもない。
クラシックだけ弾いていれば良いのでもない。
だから欧米諸国は厳しい財政の中で難民を受け入れるのである。
人間が人間を敬えなくなったら、犠牲者たちを、被害者たちを追い払うだけになったら、欧州の音楽は終焉を迎える。
日本では、まだ音楽は始まってすらいない。
弱者を虐待放置して死なせるか医療を偽装して殺すかという日本的司法の日本社会では、留学が必須である。そして帰朝した者の演奏を聴くと、特に優れた者ですら帰国してすぐに欧米諸国で呼吸していた精霊たちは死滅している。
冷酷無情な極東の悪霊が奏でる音楽は、たとえどんな名曲であっても、どんなに技術的に優れていても、伝統的音楽ではない日本特有の残虐非道な死の曲に変容してしまう。
未開人が人間をハリツケにかけたり火炙りにしたりする時に太鼓と歌があるその異常な古代の心、ユダヤはイエスを磔にかけ、神道は兄妹を喰らわせ、狂った司法行政慣習を讃嘆賛美する音楽。
その日本人の音楽は教育段階から異常である。
長い間、西洋人だけが日本人の異常性を指摘しているのではなく、日本人の多くも異口同音に苦痛を訴え、時には絶叫し、時には告訴申告しているにもかかわらず。
私のバイオリンの先生が音楽的な感性に優れていたのは、当時壮年期だったがウィーン人との交流があったから日本人の中では優れていたのではないかと思う。ウィーンにはヨーロッパ音楽全体の成熟がある。しかしながら日本の神道の残虐非道さを保持するために障害者より反社を優先する間違いを犯してきたことには完全に無反省に観える。つまり日本ではマシな先生だが、ハーケンクロイツ思想に合致する悪魔の使徒であろうかと推測する。
バイオリンと一体になれる喜びを教えてくださったが、全人類と一体になって全人類を敬う喜びは私のバイオリンの先生や日本人の先生達からは感じ取れず反面教師となった。
一昨日、ある初対面のベルギー人からインターナショナルメンバーのカルテットを聴く機会に御招待頂いて、昨日音と音の妙が実に人と人の妙でしかないことを再確認した。
人と人が成立しない日本的文化、或いはマジメな人と人のつもりの日本特有のイジメ文化で、富裕層の中だけのコミュニケーション音楽で外国人排斥音楽、犠牲者排除音楽の中では、私はほとんどただ楽器と来日音楽家たちだけと音楽することができた。
帰国後ほどない演奏は日本人(小川恭子さん)の演奏の中では唯一感銘を受けた。
気品は弱者に手当てすることができるすべての生命への愛の強さからしか生まれない。
強さと気品とは、弱者、女性児童への手当てそのものである。
極東の似非の妖怪の音楽は魅力的とは言い難く、私にとっては苦役苦痛の極みなのである。
日本人のいう強さは弱者への恫喝や残虐さの強さでしかない。
実際ボーイングのタッチが日本人は話にならないことばかりだ。
日本の音楽学学士、バイオリン専科卒に何の意味もないことは明らかだ。どちらかといえば有害であることを知るべきだ。
インターナショナルな奏者が居る日本のバイオリン教室やコンサートで教えて頂いたことは、つまりそういうことである。
深謝。