むかし「菊と刀」を斜め読みして日本人の価値観と感性が心底嫌な感じだったが、少し時代の変化も感じる。
政治と音楽は切っても切れない部分と、まったく別の部分がある。
まったく別の世界に閉鎖すると本末転倒で無限性のある音楽が成立しなくなるから難しい。
この世で1人だけでは音楽は成立しないから、残念ながら音楽は政治そのものである。
音楽の目的や效果は、娯楽・快楽・洗脳・癒し・広告・政治・式典・団結・民族など多岐にわたるので、政治と別のものはない。
政治を忌避しているだけである。
イヤな人や難しい人がいないところで楽しくやるのが音楽だというステレオタイプは拝金主義者たちによく馴染む。
自己保身が一番だから差別と排除を政治的にやれば立身出世が叶う。
浄土宗の教えと重複している。
やるべきことから逃げて音楽の世界に逃げ込むフルトベングラー礼賛者たちに、社会正義を理解しろと言っても無理だろう。
面倒なことから逃げて弱者を排除する音楽は、悪魔のための音楽である。
虐殺や不正などの事実から目をそらし犠牲者たちがまるでこの世に存在しないかのように快楽に耽る音楽。
本物の音楽家たちの言葉をよく読んでみると、むしろ犠牲や悲劇を包含包摂した楽曲の把握力と表現の深さが伝わってくる。
残念ながら日本人にそういう人間的な音楽家がいるのかどうか極めて不確かだ。
主君を悪魔として大衆を惑乱させて名聞名利を満たす音楽家たち。
欧米ですら近年はグローバリズムとユダヤ財閥を神と仰いでいる人道性もどきの音楽家の比率が増えているように思える。
だから日本人音楽家たちは自公民維にへつらいおもねる者が大多数なのである。
少し人間性を理解している優秀な音楽家たちは、しばしば渡欧渡米、移住、二重国籍などの形にならざるを得ない。
愛国心はプーチン大統領も重要視している悪魔のための呪縛呪術である。
国籍や愛国心や民族主義などというものは、ジャンルであって音楽そのものの本質を破壊する偏頗なこだわりは破滅ものだ。
バランス感覚を正常に持ってこそ優れた音楽家であり、人間性を深く研究する義務を感じない音楽家たちの上品げな下劣さは恥ずべきもの。
音楽と政治は人間性の発露であるから、無関心であってはならない。
優秀なものは少数派で、多数決では非人道的な残虐な社会へと転落していく。
音楽業界もまた商売や人気とりでは衰退劣化する。
中途半端な少数派をおだてあげてかつぐ日本の歴史は変わっていない。
本当に優秀な音楽家と馴染まない日本の音楽家文化、日本文化、日本の政治。
日本人だから劣っているのではなく、優秀な日本人が浮いてしまって日本に馴染めない。
劣っている日本人大衆に対する違和感は正常である。
音楽に限らず日本人は皇室から浮浪者まですべての人が重病であることを自覚しなければならない。
ヘイトや西洋文化でマウントするような話ではなく、日蓮の指摘でもある。
本物の音楽家たちの言葉を心で受け止めて、誠実な人間として音楽を演奏できるような日本人音楽家が1人でも生まれるように願う。
非人道的カルトにはまず不可能だが、日本人には信教の自由がないのだろう。
確かに日本の政治も変わろうとしている。
泉前明石市長の成功と実績からは、自公民維のマヌケさが歴然としている。
しかし日本人大衆がマヌケなボケナスでは、そのシフト方法を理解できない。
なぜマヌケでボケナスかって、美しい音楽が日本人大衆を眠りに誘うからである。
多幸感の依存性薬物中毒患者は毎日テレビやユーチューブで音楽のシャワーを浴びているものだ。
現実や難題と向き合う力を奪う現実逃避の音楽が優勢なのだ。
自由のない音楽家たちは極めて不幸だ。
悪魔の手下に甘んじて大衆を不幸にするからだ。
それぞれに選択肢は常にある。
日蓮は日本人を生きメクラといった。
現にある選択肢が視えない。
妖怪の一つ目小僧のようだ。
そういう自己の姿や性質をすら知らない民族のカルト性のままでよいのだろうか?
その程度なら残虐性を改善できないのだから、戦争を選択するだろう。
日本を破壊攻撃してもトータル国際的には許容される。
一番許容するのはアメリカだから、官僚に国民保護するつもりなど毛頭ない。
この国の政治的な音楽のおぞましさは例えようもない。
一個人の思いとしての記事ではなく、東アジアと日本がいかに進化するかがテーマであり、それはバイオリン弾きなら熟考して当然のことだと確信している。
日本人の特異性・異常性を客観視することも、音楽、楽曲を正しく感じ取るための必須課程である。
その基礎的な教養は日本では誰も教えない人間としての核心である。
音楽家として大成する基礎条件でもある。
使い捨ての駒でよければ学ぶ必要のない教養であり音楽家としての存在価値も代替可能要員としてどうでもよいものになってしまうのである。
哀れなものである。