バイオリニストや指揮者など優れた音楽家を賞賛する。
私も素晴らしい演奏家に賛辞を贈る。
しかし等身大の人間として、愚かな音楽家たちが大勢いることも確かだ。
宿命的に名器や名誉ある地位などを得るために政治経済上の偏向が強い人たちが相当数いる。
特に国家の庇護を受けられるかどうかが最重要である中国ロシア日本などの自由度の低い国籍が大きな影響を及ぼしている。
音楽は音楽として独立したカテゴリーではなく、政治的従属を強いられる面はどうしても否定できない。
時代や国を超えた段階のものは、気高く孤高ですらあるが、一定国籍の現役演奏家に自由はない。
全体主義や資本主義のコマーシャルや接待役を仰せつかり奉る侍者が精一杯。
自ら全体主義民族として希望する変わり種は、ユダヤ人日本人未開人にしかいないのではないか?
音楽作品の素晴らしさの一部であれ伝えてくださるご苦労に対して労うことは礼儀として大切だが、ごく一握りの演奏家以外は、音楽文化の一部しかつかみ取れず、むしろ本家に対して失礼な振る舞いに陥る音楽家が多数派である。
ヨイショ一辺倒ならば少しは反省して、本家に肉薄する演奏家なのか、本家をうならせる演奏なのか、素面で聴き分ける耳を持ちたい。
文化が役割分担なのか上下階級なのか、民主主義なのか権威主義なのか?
音楽の世界でも、演奏そのものからでも、かなりの違いがある。
人間性や振る舞いからはいくらかは推察できる。
しかし今の時代は西側と東側で単純に分けられない。
日本やトルコやイスラエルなど政治・宗教・人種・民族の交錯する地域では一概に言えない。
だからこそ音楽演奏そのもの、プログラム企画そのものから、聴き分ける必要がある。
心酔してヨイショした演奏家が仮にもナチスに協力的だったというような人道的犯罪への加担なきよう。
音楽は本来人間が奏でるものだからこそ、違和感には過敏なくらいが安全だ。
世界中で外国人収容施設や障害者支援施設や児童福祉施設などを積極的に訪問演奏するような流れができるように心から願っている。