FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

遺伝子ですべては決まらないに決まっている

遺伝子でどこまで個人の特徴が決まるか?

わかりやすいのは身体的特徴だから、外見上のことで人生が左右されるという価値観にかたよると、遺伝子ですべて決まると考えがちになる。

実際は外見上で決まるのは、人生のうちごくわずかだ。

難しいのは、性格や知的障害に精神障害と文化宗教的なものの相互作用、関連性である。

生まれつきだという面ばかり言われるが、先天性疾患と判別できるものは少ない。

先天的であれ、問題なく幸福な人生を送ることができる実例が多い。

カルト宗教で知的障害精神障害を発症する例が相当あり、擬装医療行為で就学就労能力が制限されると不幸になる。

欧米では比較的カルトに監視の目があり、就学就労は容易なので多くの知的精神障害者は幸福になる。

性格の問題も価値観や基準の多様性を認めると問題なく活躍できる。

日本の一律伊勢神宮参拝強要の霞が関基準では、多様な性格を問題視して排除する。

つまり遺伝子の問題はわずかなものであり、違いを容認するか疎ましく嫌うかという社会心理的問題のほうが遙かに重要だ。

見た目重視な表面的文化水準は低いレベルで人間としては幸福とはいえない。

それは外見上も障害という身分差別も同程度の外的な差別を優先している日本人の浅はかさそのものだ。

NATOや先進国の基準から言えば、日本人は愚かな民である。

遺伝子つまり個性を運命と階級として選別して虐殺や排除の理由にするからだ。

いくら軍事力があり株式市場があっても、そこで生きる生物たちが不幸な動物では仕方がない。

宗教の間違いを言わないままに、改善されることはない。

日本の場合、遺伝子の問題は宗教の問題として分析する必要がある。

日本人に宗教を選ぶ権利がないことが、日本人に自覚されるようになればよい。

習慣や価値観を一律で強要しているのが日本人文化だ。

どんなに優秀な遺伝子でも、日本人であるために不幸である。

日本人が幸福だと思っているのは比較級の文化的幸福がほとんどであり、人間を蹴落とし踏みにじることを幸福だと思う病的な遺伝子を保存しているだけなのである。

神道の遺伝子こそ妖怪遺伝子である。